二次会は青山にある小洒落たワインレストランで行われた。
九十名ほど入れるスペースの店内には、披露宴に出席しなかった同級生も数多く集まっていた。俺達はワインを片手に久し振りに会う同級生達と握手を交わし、昔話に花を咲かせた。

純也と笹井と俺は、店内の一番奥のテーブルを三人で囲んだ。凛子との再会を心から期待していたが、結局、彼女は姿を現さなかった。俺は半ばやけになり、赤ワインを立て続けに三杯ほど飲んだ。披露宴で料理をほとんど口にしていなかったせいで、アルコールが一気に入ると身体全体に酔いが回った。
「ちょっと、山口君、そんなに飲んで大丈夫?」
「大丈夫だよ。今日は輝と矢沢のめでたい席なんだから飲もうぜ」
「そうだね、久々にみんなで飲もう!」
俺達は三人で再びグラスを合わせた。
「そういえば明彦、お前さぁ、卒業旅行の時、修学旅行で小川さんにプロポーズしたって言ってたよな」
純也も相当酔いが回っているのか、笹井のいる前で突然その話をし始めた。
「それ、本当なの?」
「ああ、修学旅行の一日目の夜、俺、凛子を呼び出しただろ。笹井、憶えているか?」
「うん、憶えてる」
「その時さ、函館の夜景を見ながら、指輪を渡してプロポーズしたんだ」
「そうだったんだ。そう言われてみれば、あの頃の凛子、チェーンに通した指輪を首からずっと下げてた。あれがその時の指輪だったんだ」
「だけどさ、良く考えてみれば、あれからもう八年…憶えている筈もないよな」
「ねぇ、山口君」
笹井は手に持っていたワイングラスをテーブルの上に置くと、真剣な眼差しで俺を見た。
「あたしは…もしあたしはだったらだけどね、絶対に忘れられないと思う」
俺はグラスの中の赤ワインを一気に飲み干した。
「女の子にとっては、それって一番嬉しいことだもん。まして凛子がそんなに大切な事を忘れる筈ないじゃない。凛子がどうして八年前、突然あたしたちの前から姿を消したのか分からないけど、今でも絶対に山口の言った事、憶えていると思う」
笹井の言葉には妙な説得力があった。
その頃には輝と矢沢が到着し、簡単な挨拶の後、様々なテーブルを回っていた。俺達はその後も何杯もワインを飲み続け、色々な話をした。
「俺と凛子さ、実は三歳の頃に一度出逢ってたんだ。八年前、俺が聖南学園に転校してきた時には、お互いそんな事全然知らなくて。だけど凛子には何故か惹かれるものがあってさ。次の日の朝、土手で待ち伏せをして、彼女に声を掛けたんだ」
朦朧とする意識の中、俺は八年前の土手での出逢いを思い出していた。
「それでお前達、同志になったのか?」
「ああ」
「人生の中で二度も出逢うなんて、奇跡じゃない!」
「三度目もいつかあると思うか?」
「うん、あると思う。きっともうすぐよ」
「えっ…」
いつの間にか輝と矢沢はメインテーブルに戻っていた。そして矢沢がマイクを持ち立ち上がった。

「皆さん、今日は私達のためにお忙しい中、お集まりいただき、本当に有難うございます。今日は皆さんに紹介したい人がいます。私達ふたりの披露宴のために、会場の花の飾り付けやブーケを作ってくれた高校時代の大親友、小川凛子です!」

メインテーブルの脇の小さな入口から、彼女は突如として現れた。
眩いばかりのスポットライトの中に彼女の姿が浮かび上がった。八年振りの彼女は髪を短く切り、身体にフィットした淡いピンクベージュのパンツスーツ姿で登場した。ウエストは程よくくびれ、無駄な贅肉のないそのしなやかな肢体は昔と少しも変わっていない。首には透けたシフォンのストールを巻き、バラの花を形どったコサージュを付けている。周りの腕や胸元を惜しみなく露出したどの女性達よりも、彼女の姿は数倍女性らしくエレガントだった。彼女は突然の紹介に戸惑った様子で、透けるように白い頬をうっすらと赤らめ、大きな拍手の中で一礼した。
「ねっ、三度目もあったでしょ」
「良かったな、明彦」
「ふたりとも知ってたのか?」
「うん、実はね、結衣のお色直しの時に、あたし控え室に行ったの。そうしたら、凛子がいて、八年振りに再会したの。裏からそっと披露宴を見守ってたんだって。凛子は披露宴でみんなの元気な姿を見られたから、それで満足だって言ってたんだけど、結衣とふたりで説得して、二次会には無理やり連れてきた」
「そうだったのか…」
マイクを持ち恥ずかしそうに挨拶する彼女の姿を、俺は目を細めてじっと見つめた。髪型こそ昔と変わっているものの、その笑顔は八年前と少しも変わらない俺の太陽そのものだった。尊い記憶が胸を突き上げ、アルコールも手伝ってか、俺の両頬はいつの間にか濡れていた。
「山口君…」
「悪い、ちょっとトイレに行ってくる」
俺は胸がいっぱいになり、その場で号泣してしまいそうだった。ハンカチで顔を拭い急いでトイレに行くと、冷たい水で何度も顔を洗った。俺は鏡を見つめながら、先程の光景が現実のものなのだと実感した。

会場に戻ると先程まで俺が座っていた席に凛子が座っていた。
「明彦…」
彼女は俺の姿を見るなり立ち上がると、八年振りに俺の名前を呼んだ。
「凛子…」
俺は用意していた言葉など何処かへ消えてしまい、その場に立ち尽くしたまま、暫く彼女の瞳を見つめていた。その時の俺達に言葉など必要なかった。
「そろそろお開きみたいだし、二人で何処かに行ってゆっくり話でもしたら?」
「俺と博美も久しぶりに、これから二人でデートしようと思ってるんだ」
笹井と純也が気を利かせてそう言った。
俺は思わず凛子の左腕を引っ張った。
「行こう、凛子」
俺は彼女を連れ輝と矢沢のもとへ行くと、再び再会する事を約束し、固く握手を交わした。矢沢が凛子の耳元で何かを囁いていた。皆に挨拶をして俺達ふたりは店を出た。

246まで出てタクシーを拾い目黒まで向かった。目黒川の近くでタクシーを降りると、帰国する度に五人で集まったバーへと歩いた。途中、俺達は足を止め、川面を見つめながら並んで話をした。
「あれからもう八年も経つんだな。俺、君の事、今度は必ず迎えにくるって言ったのに、また約束を守れなかった。ごめんな、凛子。君が東京に行ってから、小包の住所を頼りに君の家を探したんだ。だけどそこはただの空き地だった…」
「ごめんなさい。八年前は突然あんな形で姿を消したりして…でもあの時は、ああするより他になかった…」
彼女は川面を見つめたまま呟いた。
「いいんだ。またこうして再び出逢えたんだから。その指輪まだ持ってくれていたのか」
彼女の左手の薬指には、懐かしい指輪が輝いていた。
「ええ、ずっと。明彦もその時計、ずっと持ってくれてたの?」
「ああ、向こうに行ってからもずっとしてたよ。浅草で買ってくれたお守りも、凛子がプレゼントしてくれた物は、今でも大切に全部取ってあるよ」
俺はコートのポケットから携帯電話を取り出した。
「このストラップも、今までずっと付けてた」
「明彦…」
彼女はバッグから携帯電話を取り出し、ストラップを俺に見せた。懐かしかった。
「初めての出逢いは、まだ記憶にも残っていないほど幼かった三歳の頃の俺達。二度目は、八年前の高校二年生の一月。転校してきた朝、土手に寝転んでいた俺に君は声を掛けたんだったな」
「ええ、そうだったわね。私ね、東京に引っ越してからも、毎年、冬になると雪が降る度に、またいつの日かあなたの元気な姿を一目見られますようにって、和君が教えてくれたおまじないをしていたわ。でもこうして再び出逢えるとは思ってもみなかった」
「どうして?俺はいつかきっと、こうしてまた出逢えると信じてたよ」
「あのね、明彦、私ね…」
「しっ、黙って…」
俺は彼女の柔らかな唇に人差し指を軽く押し当てた。彼女のそのふっくらとした唇は、八年前、初めて土手で唇を重ねた日の事を思い出させた。
「今、凛子が言おうとした事、当ててみようか?」
彼女は瞬きもせず、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「自分にはもう、太陽になる資格はない…そう言いたかったんだろう」
「………」
「当たりか。八年間、どんなに離れていても、俺は凛子の事を忘れた日なんて一日もなかった。凛子はずっと、俺の太陽だった。生きる希望だった」
「あれからもう八年。明彦がそんなふうに思ってくれてくれてたなんて、夢にも思わなかった」
「凛子、今、誰か好きな人いるの?」
「…信じられないけれど、今、すぐ隣にいる」
「凛子…」
俺は堪らず彼女を抱き寄せた。八年間の想いが溢れ出し、華奢な彼女の身体が壊れるくらい固くきつく。そして彼女の頬に自分の頬を重ね合わせると、俺達は互いの冷えた頬を温め合った。
「寒くないか?」
「こうしていると、とても暖かいわ」
「会いたかったよ、凛子」
「私も本当はずっとあなたに会いたくて、仕方がなかった」
彼女の瞳からはいつしか涙が溢れ出し、俺はその涙を唇でそっと吸い取った。その涙は甘く切ない味がした。

目黒川沿いに佇むバーは、俺がイギリスから帰国する度に五人で集まった馴染みの店だった。低音のジャズの流れる店内に入ると、俺達はカウンター席に座った。
彼女はモスコミュールを、俺はジントニックを頼んだ。
八年振りの彼女との再会に、俺は静かな気分の高揚感を覚えていた。
「今夜は帰したくない…」
ジントニックのグラスの中の氷がゆっくりと溶け、カランと耳触りの良い音を立てた。
俺はカウンターの下で彼女の右手をそっと握り締めた。
彼女はモスコミュールにひとくち口を付けると、俺の腰の辺りに視線を落とし、ゆっくりと語り出した。
「明彦には話さなければいけないことがあるの」
「何?」
「…あのね、私、あの事件の後、暫くして自殺未遂を起こしたの…」
「えっ…」
「私、妊娠してた」
「妊娠…?」
「そう…理由はどうであれ、このお腹に宿った命を、私は自らの手で絶ってしまった。まだあの頃十七だった私には、レイプされた事も妊娠してしまった事も、どちらも耐え難い現実だった。それからの私は生きる希望を完全に見失ってしまった。学校へも行かず、ただ毎日部屋に閉じ籠って、何度もリストカットを繰り返したわ。そしてある日気が付くと、お風呂場でいつもより深く手首を切ってた」
「………」
俺は彼女の衝撃の告白に言葉を失った。
「でもね、死ねなかった。ううん、死んではいけないと思った…薄れ行く意識の中、窓から差し込んできた一筋の太陽の日差しが、私を死の淵から呼び戻したの。その日差しはね、美奈子が亡くなって記憶を取り戻してから、あの土手であなたと太陽を見上げながら、強くなりたいと願った日の記憶を私に甦らせた。私はどんな事があっても、亡くなった美奈子の分まで生きなければならない、そう思った。そしてあの晩、明彦、私に言ってくれたでしょう。『沈んだ太陽は必ずまた昇る』って。だからどんなに苦しくても生き抜こうって、心に決めたの。ねぇ、明彦、流星の人の事、覚えている?」
「ああ、覚えているよ」
「流星の人はね、例えどんなに離れていても、私が迷った時、いつも道標となって答をくれた。そう、あなたの事を思い出すだけで、サーッと道が開けて前方に伸びて行った」
「凛子…」
「あなたは私に生きる希望を再び与えてくれた。私もこの八年、明彦の事を忘れた事なんて一日もなかった。毎年、九月十日の誕生日には部屋を花でいっぱいに飾って、遠く離れたあなたを想ってひとりお祝いをした。そしていつの日か許されるのなら、あなたの元気な姿を一目確かめたいと思った」
俺の目からはいつの間にか涙が溢れ出していた。
「ごめんな、凛子。君にばかり辛い思いをさせて…」
彼女はそっと微笑むと、俺の頬を包み込むように両手で涙を拭ってくれた。
俺はその温もりにいつまでも包まれていたいと思った。