俺は一昨日、輝と矢沢の結婚式に出席するため、ロンドンから帰国した。
あれから八年。
凛子との連絡はずっと途絶えたままだった。
俺は単身渡英してから、休みに帰国する度に彼女との再会を期待したが、今まで彼女が俺達の前に姿を現すことは一度もなかった。
留学してから俺はそれなりに、何人かの女性とも付き合った。しかしそれは凛子を忘れるためではなく、ただ単に淋しさを紛らわせるためだけの虚しいものだった。どんな女性とベッドを共にしても、たった一度抱いただけの彼女の温もりが俺の身体中を支配し続け、時にはその最中に、
「凛子…」
と、思わず呟いてしまい、相手の女性から頬を張られた事さえあった。そんな具合だから、どんな女性とも長続きする筈もなく、持って二、三ヶ月の関係ばかりだった。
ロンドンの空の下で太陽の光を浴びる度に、俺は凛子の笑顔を思い出し、夜遅く月を眺めては、遠く離れた日本の地で彼女が同じ月を見て微笑んでいる姿を想像した。
先日、輝からメールで八年振りに彼女から連絡があった事を知らされた時、俺は暫くパソコンの画面から目を離す事ができなかった。
結婚式には凛子も出席する。やっと今日、彼女に会えるのだ。俺はこの日のために新しいスーツと靴を向こうで新調した。今日という日を俺はどれだけ心待ちにしたことだろう。

午前十一時。
俺は八年振りにこの土手に立った。
凛子、ここは俺達がふたりで過ごしたあの頃と少しも変わってはいない。
八年前、俺と君はこの土手で再会し、それから毎日のように、青い空を見上げて過ごした。
君は憶えているのだろうか?あのかけがえのない日々のことを。
校庭の花壇にひっそりと控え目に咲いていた、クロッカスの花言葉。

“青春の喜び”

君はそう教えてくれた。君と過ごした日々は、俺にとってまさに青春そのものだった。
暫く土手に佇み、その後、通用口から校内へと入った。校庭や林の中を一周した後、二年生の校舎へと向かった。予め校内を見学したいと申し出ていた俺は用務員に声を掛け、校舎の入口でスリッパに履き替えた。階段を一歩一歩上がるに連れて、記憶の波が静かに押し寄せてくる。二階まで上がり『2B』の教室の前に立つと、俺は大きくひとつ息を吸った。
扉を開けた途端、八年前と同じ教室の匂いが鼻腔を突き、一気に俺を過去へと引き戻した。俺は記憶のひとつひとつを確かめながらゆっくりと自分の席に近付き椅子に座った。あの頃はちょうど良かった机も椅子も、今ではだいぶ小さく感じられ、それだけの年月が経った事を物語っていた。
窓際の前から三番目の席に目を移す。そこにはショートボブの凛子の後ろ姿がいつもあった。彼女は頬杖を突いては良く校庭を眺めていたものだ。目を瞑ると昨日の事のように、制服姿の彼女がはっきりと脳裏に甦った。
俺は三時間あまり、あの頃の甘い記憶の余情に浸った。それから学園前の駅前でタクシーを拾い、東京の明治記念館へと向かった。
会場には一時間ほどで着き、正面ロビーでタクシーを降りた。
スーツの上に羽織っていたコートを脱ぎ、ロビーを入ると、笹井と純也に声を掛けられた。
「あっ、山口君!」
「おお、明彦、久しぶり。去年の夏以来だな」
「久しぶり。ふたりとも変わらず元気そうじゃないか」
俺達は三人揃って控え室へと向かった。受付で記帳を済ませると、まだ披露宴までには時間があったので、テーブルを囲み談笑した。
「今日は凛子もくるって聞いた?」
「ああ、輝からメールがきたよ」
「明彦、その後どうなんだ?」
「今はまだ大学院で、博士号を取るために論文論文の毎日だよ。純也は?」
「俺もまだまだ先は長いよ。研修医になったはいいけど、毎日ハードでさ。こっちが病気になりそうだよ」
「そうか、純也も頑張ってるな。笹井は?」
「あたしはまだ、秘書の仕事を続けているわ」
俺は凛子の事が気になった。
「凛子はどうしているんだろう?」
「この間、結衣からメールがきて、今はブライダル装花の仕事をしているんだって。今日の会場の飾り付けやブーケも、凛子に全部お願いしたって言ってた」
暫くすると和装姿の輝と矢沢が、控え室に挨拶にやってきた。
「おお、輝、久しぶり!今日は本当におめでとう。袴、似合ってるな」
「何だか慣れないから小っ恥ずかしいよ」
「矢沢もきれいだよ。子供、できたんだって?」
「そう、もうすぐ五ヶ月。山口君も元気そう!」
「ああ、お陰様で何とか元気でやってるよ」
「凛子は?今日、きてるんだろ」
「うん。今日の会場の飾り付けは、全部、凛子にお願いしたの」
そうこうしているうちに、柴田先生と渡辺が控え室に入ってきた。
「やぁ、みんな久しぶりだな。佐川、矢沢、本日はおめでとう!」
「先生、ご無沙汰しています。今日は僕達のために、わざわざきていただいて、有難うございます」
輝と矢沢は深々と頭を下げた。
「渡辺さんも今日は有難う。可愛いな、下の子?」
「佐川君、結衣、今日はおめでとう。まだ生まれて三ヶ月目なの。やっとこの頃、首が座り出したばかりなのよ」
渡辺は当時付き合っていた大学生の彼氏と、一度別れたものの、大学の頃、街で偶然再会し、よりを戻して大学卒業と同時に結婚したそうだ。
披露宴の時間が近付くと、庭園でふたりを囲み記念撮影が行われた。俺は凛子の姿を探したが、彼女の姿はなかった。
記念撮影が終わると会場へと入った。
「わぁ、凄くきれいね!これ、凛子がひとりで全部飾り付けたんだ」
笹井が感嘆の声を上げた。
会場は溢れんばかりのピンクのバラで飾られ、むせ返るような香りが会場一面に漂っていた。それは俺に凛子のバラのシャンプーの香りを思い出させた。
俺は自分の名札が置かれている席に着いた。隣には彼女の名前が書かれた札が置かれていた。俺の胸の鼓動は次第に速さを増して行った。しかし披露宴の開始時刻十分前を過ぎても、彼女が会場に姿を現す気配はなかった。
四時ちょうどになると会場は暗くなり、BGMと共に司会者のアナウンスが流れた。
庭園に面した大きな窓が開き、和装姿の輝と矢沢が入場してきた。会場のあちこちから歓声が上がり、フラッシュがたかれた。
ふたりは腕を組んでゆっくりとメインテーブルまで進み、深々と頭を下げげると着席した。
司会者が彼等の紹介をし、両家の主賓の挨拶の後、ケーキの入刀が行われた。輝と矢沢は互いにぴったりと寄り添い、顔を見合わせ少し照れ臭そうにしながら、ウエディングケーキにナイフを入れた。すると大きな拍手が沸き起こり、多くの人達がカメラを持ちケーキの周りを囲んだ。
続いて乾杯が行われた。ふたりがシャンパングラスを持ち立ち上がると、我々も続いて立ち上がった。
輝の叔父が挨拶に立ち乾杯の声と共に、ふたりの幸せを祝うグラスの音色が会場中で鳴り響いた。俺達のテーブルでもグラスを合わせ、輝と矢沢の新たな門出を祝った。
その後は歓談の時間となり、目の前に豪華な料理が運ばれてきた。
「ねぇ、凛子、何してるんだろう。ちょっと遅くない?」
目の前の笹井があたりをきょろきょろ見回している。
「せっかく八年振りに会えると思って、楽しみにしてきたのに」
笹井の隣の純也が、料理を口に運びながら言った。
「きっと片付けとかしているんじゃないのか?この会場の飾り付け、全部、凛子ひとりでやったんだろ」
俺はそう言いながら、シャンパンを片手に隣の席に置かれた名札を見つめた。凛子の隣の席には、亡くなった小野美奈子の席も用意されていた。ふとその席のテーブルの上のナフキンの下に目をやると、一枚の写真が置かれていた。俺は立ち上がるとその席に近付き、写真を手に取った。それは凛子と小野が肩を組み、制服姿で写っている写真だった。
「おい、明彦、何してるんだよ」
「これ」
俺は純也と笹井にその写真を見せた。
「これ、きっと凛子が置いたのよ!あたし、ちょっとその辺を捜してくる!」
「笹井、ちょっと待って。俺が捜しに行く!」
「おい、明彦!」
膝の上のナフキンを適当に折りたたみ、俺はそっと会場を出た。

会場の外に出ると廊下の女子トイレは、ひっきりなしに人が出たり入ったりしていた。そのひとりひとりの顔を確かめる俺の姿に、皆、不思議そうな顔をしながら通り過ぎて行く。俺は幾つもの会場が並ぶ廊下を凛子の姿を追い求め、小走りになりながら捜し回った。三十分近く掛けて館内のありとあらゆる場所を捜したが、彼女を見つける事はできなかった。
俺は落胆し肩を落として会場に戻った。
会場に戻ると輝と矢沢は既にお色直しを終え、暗い中スライドが流されている最中だった。
「凛子、いなかったの?」
「ああ」
「そう、どうしたんだろうね。ねぇ、見て、懐かしい!修学旅行の写真。ほら、あそこに凛子も写ってる」
笹井に言われてスライドに目をやると、ちょうど修学旅行の写真がコメントと共に流れていた。それは五稜郭タワーの土方歳三像の前で、六人揃って撮った写真だった。凛子が俺の横でピースサインをして笑っていた。懐かしさのあまり胸が熱くなった。
スライド上映が終わるとスピーチの時間となり、輝と矢沢の会社の上司や同僚、その後、柴田先生のお祝いの言葉、そして友人代表として笹井が涙を浮かべながら、手紙を読み上げた。マイクは俺や純也にも向けられた。俺は突然の事でスピーチの言葉も考えていなかったが、卒直な気持ちを言葉にした。

「輝君そして結衣さん、本日はご結婚おめでとう。ふたりとは八年前、僕が東京から転校して高校二年のクラスで一緒になりました。輝君とは隣の席になったことがきっかけで、それから色々な話をするようになり、ふたりの恋愛相談にも良く付き合いました。ふたりは些細な事でたまに喧嘩をしたりもしていましたが、君達の絆はとても深く僕の憧れでもありました。僕は今日という日を心待ちにしながら、ロンドンから帰国しました。こうしてふたりの幸せな姿を見ることができて本当に嬉しいです。これからも末長くお幸せに。そして早くふたりの可愛い赤ちゃんを見られる日を楽しみにしています」

矢沢は始終涙ぐみ、俺達のスピーチに耳を傾けていた。輝はそんな矢沢を気遣い、時折、耳許で何かを囁いていた。俺はそんなふたりの姿を微笑ましく見守りながらも、心中では羨ましくもあった。披露宴もいよいよ終盤を迎え、互いの両親への花束贈呈が行われた。とうとう凛子は最後まで姿を現さなかった。
俺達は二次会の会場へと向かった。