その後も俺は、毎日凛子に電話とメールをした。ゼミとアルバイトの帰りにも彼女の家へと行ったが、夏休みの間、結局、凛子からは何の音沙汰もなく、会うことはできなかった。矢沢と笹井も心配して何度も連絡をくれたが、あの日以来、凛子からの連絡は何もないということだった。

そして夏休みが終わり、二学期が始まった。次々とクラスメイトが登校してくる中、俺は廊下の壁にもたれ掛かりながら凛子を待った。しかしいくら待っても、彼女が姿を現す気配はなかった。
半ば諦め掛けて教室へ入ろうとした時、廊下の向こうから笹井と矢沢が息を切らせて走ってきた。
「山口君!」
笹井は俺の前までくると、肩で息をしながら俺の腕を掴み、思いもよらぬ言葉を口にした。
「ねぇ、山口君、凛子が転校したって本当なの?」
「えっ?」
矢沢がいつにもなく真剣な面持ちで言った。
「昨夜遅くに凛子からメールがきて、突然の事だけど、転校することになったって。何でも家の事情で急な事だから、最後にみんなに会うこともできなくてごめん…今まで本当に有難う、って内容だった。あたしびっくりして、直ぐに返信したんだけど、それからは何の返事もこなくて。山口君には何か連絡はなかったの?」
「あっ、ああ…」
その時、始業のベルがけたたましく鳴った。俺は笹井と矢沢にに腕を引っ張られ、茫然としたまま教室に入った。

暫くすると柴田先生が、眉間に皺を寄せ、額の汗を拭きながら、教室へ入ってきた。
「みんな、おはよう。いよいよ今日から、二学期が始まるな。みんなそれぞれに有意義な夏休みを過ごした事と思う。今朝はみんなにひとつ報告がある。実は小川が家庭の事情で、突然だが転校する事になった。急な事でみんなに挨拶する事もできずに申し訳ないと言っていた」
教室中が一斉にどよめいた。
隣の席の輝が俺の右肩を激しく揺さぶった。
「おい、明彦、凛子ちゃんが転校って、どういうことだよ!」
俺は頭の中が真っ白になり、輝の問い掛けにも上の空だった。

俺たち五人は、一時間目の授業が終わると屋上に集まった。
「ねぇ、山口君には本当に何の連絡もなかったの?」
最初に口を開いたのは笹井だった。
「ああ、本当に俺には何の連絡もなかった。今朝の柴田先生の話で初めて知ったんだ」
「あたしのところにも、凛子から博美と同じ内容のメールがきたけど、何かおかしくない?いくら家の事情だからって、あたし達五人に会わずに、突然転校するなんて、凛子らしくないよ」
「明彦、お前、本当は何か知ってるんじゃないのか?」
純也が俺の肩を揺さぶった。
俺はあの日、凛子の身に起こった忌まわしい出来事の事を考えていた。だが、彼女の事を考えると、真実を打ち明ける事は憚られた。

俺はその後の授業にも全く身が入らず、昼休みになると、走って職員室の柴田先生のもとへと向かった。
「先生!」
「山口、どうした?」
「凛子、いや、小川が転校って、どういうことなんですか?」
「それがな、先生にも良く分からんのだよ。一昨日、突然、小川のお母さんから電話があってな。お母さんはご主人が亡くなられて、とてもでもないが、この学園に通わせる事ができなくなってしまったと言うんだが、どうも口実のような気がしてな。今朝、小川とお母さんが退学の手続きにきたから、心配で色々と聞いてみたんだが、結局は家庭の事情としか言わんのだよ。山口、お前何か知らないか?」
「僕にも全く、見当が付かなくて」
この間、凛子の家を訪ねた時、彼女のお母さんは、そんな素振りはひとつも見せなかった。やはり凛子はあの日、強姦された事が原因で転校したのだ。
「今朝、手続きにきたんですか?」
「ああ、小川の様子も何だかおかしくてな。あんなに良く喋る小川が、一言も話そうとせんのだよ。最後にみんなに宜しく伝えてくれ、お世話になりましたとだけ言って帰って行った」
「先生、新しい住所とか連絡先は分からないんでしょうか?」
「それがな、生徒には一切言わないで欲しいという申し出があって、悪いがお前にも教える事はできないんだ」
「そうですか…」
「山口、それと試験の事なんだが、九月の二十九日の土曜になりそうだ」
「はい、分かりました」
俺は試験の話など耳には入らなかった。生返事をして職員室を出ると、一目散に廊下を走り校舎を出た。とにかくもう一度、凛子と会って話がしたい、ただそれだけだった。
校門を出て無我夢中で土手を突っ走り、学園前の駅から電車に乗った。車中、車窓を流れて行く景色がやけに遅く感じられ、俺は苛立った。大和川の駅に着くと階段を必死で駆け上がり、改札を出て凛子の家を目指した。彼女の家の前までくると、俺はしつこくチャイムを鳴らした。だが、すでに人の気配は家にはなく、

“小川”

と書かれた表札だけが、虚しくポツンと残されているだけだった。俺は全身の力が抜け落ち、門の前にしゃがみ込んだ。
それからも俺は毎日、凛子にメールや電話をしたが、彼女から連絡がくる気配は一向になかった。ただいたずらに時間ばかりが過ぎて行くだけだった。

そして俺は九月の十日に十八歳の誕生日を迎えた。凛子が突然学校を辞めてから、二週間以上が経った。俺達五人の間には、次第に凛子の話題に触れてはいけない雰囲気が漂い出していた。その日は放課後いったん家に帰ってから、学園前のカラオケ店に集まり、四人が俺の誕生日を祝ってくれた。
矢沢と笹井がバースデーケーキにロウソクを立て、純也がマッチで火を灯した。俺はロウソクの火を吹き消しながら、凛子の誕生日を共に祝った日の事を思い出していた。
四人はまるで俺を励ますかのように、次から次へと歌い続けた。笹井が六等分にケーキを切り分け、皆の前へ置いて行く。するとひとつ余ったケーキを見て、矢沢がポツリと呟いた。
「ここに凛子がいないなんて、信じられない」
その一言で場の空気が一変し、誰も歌わなくなった。
「今頃、凛子、どうしてるんだろう…」
今度は笹井が俯いたまま言った。
「小川さんも、今日が明彦の誕生日だってこと憶えている筈だよ。何かアクションがあるかもしれないな」
「うん、凛子ちゃんが、明彦の誕生日を忘れる筈ないもんな」
純也と輝がそれぞれに言った。
「なぁ、凛子の事は置いといて、せっかくなんだから、歌おうぜ!」
俺はとてもそんな気分ではなかったが、四人の気持ちを考えると、そう言うしか他になかった。
「ねぇ、山口君も何か歌いなよ!」
そう矢沢に言われ、俺は尾崎の『OH MY LITTLE GIRL』を歌った。

その日は八時頃まで五人で過ごし、家に着いたのは八時半を少し過ぎた頃だった。
家に帰るとリビングのテーブルの上に、小包が置かれていた。
「明彦、お帰りなさい。今日は楽しかった?」
「うん」
「それ、凛子ちゃんから今日届いたの。今日の昼間ね、美枝子さんからお電話をいただいて、急な事だけれど引っ越したって。あなた何も言わないから、お母さんびっくりしちゃって…」
「凛子のお母さんから、電話があったのか?」
「ええ」
「何処へ引っ越したか、母さん聞いたか?」
「ご親戚を頼って、東京の文京区にお引っ越しされたみたい。せっかく十四年振りにお会いする事ができたのに、残念で仕方がないって仰ってたわ」
「他には?何か言ってなかったか?」
「家の事情で突然こんなことになってしまったけれど、明彦には身体に気を付けて受験頑張るように宜しく伝えてって」
俺はテーブルの上の小包を持って、二階の自室へ駆け上がった。部屋に入ると真っ先に小包を開けた。中にはアルバムとリボンが掛けられた白い小さな箱、そして手紙が入っていた。

明彦へ
十八歳のお誕生日おめでとう。受験勉強、元気で頑張っていますか?あの日は突然いなくなったりしてごめんなさい。そして、こんな形で学校を辞める事になってしまった私を許してください。あの日、あんな出来事があって、私に残された選択肢はたったひとつしかありませんでした。自分の存在をみんなの前から消す事…私なりに充分に考えて出した答えです。あの日明彦は、イギリスの大学を受験する事を辞めると言いましたね。でもそれは、私の本意ではありません。私、明彦の邪魔にだけはなりたくなかった。その気持ちに、今も変わりはありません。こうなってしまったのは、全て自分の責任です。明彦は何も悪くなんかない…それだけはきちんと伝えたかった。あの日私の身に起こった出来事は、どうか明彦の胸の中だけに封印してください。明彦と過ごした時間は、私にとって何よりもの心の支えであり宝物です。明彦にはきっと素敵な未来が待っている。私はそう信じています。アルバムは、私が修学旅行で撮った写真です。残りのページは最後の高校生活の想い出でいっぱいにしてください。腕時計はそんなに高い物ではないけれど、離れていてもいつも明彦と同じ時を感じていたいという、私の勝手な思いから選んだ物です。もし良かったら使ってください。もうすぐ試験ですね。くれぐれも身体には気を付けて頑張って。明彦ならきっと大丈夫。明彦が試験に合格して、イギリスに行ける日がくることを、同じ空の下で祈っています…。
凛子

俺は手紙を読み号泣した。アルバムは凛子が修学旅行で撮った数々の写真で埋め尽くされていた。箱を開けると、中には黒革の腕時計とフエルトでできた手作りのお守りが入っていた。俺はそれを握り締め、一晩中泣き続けた。そして、凛子を救ってやれなかった自分を何度も責めた。