それから月日はまるで何事もなかったかのように、穏やかに流れて行った。
やがて梅雨が明け、夏がやってきた。
夏休みに入ると俺はゼミに通い出し、ふたりの距離は次第に離れて行った。凛子は変わらずアルバイトを続け、矢沢や笹井達としばしば何処かへ出掛けている様子だった。

夏休みも中盤を過ぎ、二学期まであと二週間を残したある日の事だった。
ゼミとガソリンスタンドのアルバイトを終えた帰りにバスに揺られている時だった。突然、ジーパンのポケットの中の携帯電話が鳴り出した。見ると矢沢からの電話だった。
「もしもし」
「あっ、山口君!良かった、繋がって」
「どうしたんだよ、今、バスの中なんだ。また後で、こっちから掛け直す」
そう小声で言って、電話を切ろうとした。
「ちょっと待って!お願い、切らないで。山口君、凛子が…」
「電波が悪くて良く聞こえないんだ。凛子がどうかしたのか?」
俺は携帯電話を右手に持ち替えた。
「聞こえる?凛子が、大変なの!」
「大変って、凛子に何かあったのか?」
「あのね、凛子がいなくなっちゃったの…」
「それ、どういう事だよ?」
「詳しい事は後で話すから、今から直ぐに渋谷に来られない?」
「渋谷?分かった、今から直ぐに行く。場所は何処へ行ったらいいんだ?」
「109の前で博美と待ってるから、急いできて!」
嫌な予感がした。
矢沢の声は尋常ではなかった。電話を切ると俺は次の停留所でバスを降り、最寄りの駅から真っ先に電車に飛び乗った。電車の中で妙な胸騒ぎがした。途中の駅で電車を乗り継ぐと、ホームを全速力で走り、JRへと乗り換えた。
渋谷の駅に着き改札を出ると、ハチ公前は宵の口にも関わらず、アスファルトから放出される熱と街を行き交う人々の熱気で溢れ返っていた。何人もの人にぶつかりながらスクランブル交差点の前までくると、俺は信号が青に変わるのを待ちきれずに、クラクションを鳴らされながら、車の間を縫って向かい側へ走った。109の前に着くと浴衣姿の矢沢と笹井が、俺を探してふたりでそわそわしながら立っていた。
「おい、矢沢!ごめん、遅くなって」
「山口君!こっちこそ急に呼び出したりしてごめん」
「凛子がいなくなったって、一体どういう事なんだ?」
笹井が泣きじゃくりながら話し始めた。
「あのね、あたし達、今日、凛子のバイト先の山下さんって人とその人の仲間の人達に誘われて、神宮の花火大会に行ったの。始めは普通に花火を見てたんだけど、途中からその人達がお酒を飲み始めて。私達にも一緒に飲まないか?って言い出したの。何か様子がおかしかったから、あたしと結衣は適当にあしらってたんだけど、凛子、無理矢理、何杯も飲まされちゃって…もしかしたら、お酒の中に薬が入っていたのかもしれない。気が付いたら、凛子がいなくなってて…山下さんと、もうひとりのちょっと雰囲気の怪しい男に、何処かへ連れて行かれちゃったみたいなの」
「それ、本当なのか?」
「うん。それであたし達、途中でトイレに行くふりして逃げ出して、その辺を博美とふたりで捜したんだけど、何処にもいなくってさぁ。どうしていいか分からなくなっちゃって、山口君に電話したの!」
「何処か心当たりはないのか?」
「最近ね、山下さん達に連れられて一度だけ行ったカフェバーがあるんだけど、あたし達ふたりじゃ怖くて行けなくて…もしかしたら凛子、その辺にいるのかもしれない」
「そんなにヤバい所なのか?」
「うん、かなりヤバいと思う…」
「分かった。じゃあ、俺ひとりで行くから場所を教えてくれ」
「でも、ひとりじゃ危ないって。あたしと博美も一緒に行くよ」
「駄目だ、矢沢と笹井は早く家へ帰れ!」
俺は矢沢に店の場所をメモに書かせた。大体の場所を聞くと、急いでその店へと向かった。
そこは辺り一帯にラブホテルと、怪しげなテナントが軒を連ねる猥雑な場所だった。
「ねぇ、お兄さん、遊んで行かない?」
途中、何人もの女に声を掛けられた。俺は矢沢が書いたメモを頼りに店を探した。

『Black Cherry』

その店は小さな看板が出ているだけの、目立たない店だった。俺は直ぐ様、地下に続く階段を駆け下りた。店のドアを開けると、屈強そうな店員の男に行く手を阻まれた。
「お客様、どなたかのお知り合いですか?」
「いや、人を捜しているんだ」
「うちは会員制ですので、どなた様かのご紹介がないと入店をお断りしているんです」
「どけ」
「そう言われましても、他のお客様にご迷惑が掛かりますので…」
店員はそう言って、俺の腕を掴んだ。
「どけと言ってるのが聞こえないのか?」
俺は店員の手を振り払い店の中へ入った。

店内は仄暗く煙草の煙が僅かなスポットライトに照らされ、妖しく揺れていた。カウンターと数台のテーブル席で、男と女が抱き合ったり唇を重ね合ったりしている。奥へ進むと俺は見覚えのある男とすれ違った。あの日公園で凛子と抱き合っていた、山下という男だった。俺は山下の左腕を掴んだ。
「おい、山下さんだったよな?凛子は今、何処にいる?」
「お前、誰?」
「凛子に何をした?」
「ああ、思い出した。あんたいつか店にきた彼氏か。凛子ちゃんさぁ、淋しいって言うから、一緒に遊んであげたんだ」
気付くと俺はそいつの胸ぐらを掴み、脇腹を殴っていた。
「凛子は何処だ!」
「ちょっと、いきなりそれはないんじゃない。高校生がこんな時間にひとりでこんな所にきちゃ、駄目じゃないのぉ。親が悲しむぜ」
そう言うと、山下は吸っていた煙草を、俺の左の手のひらにねじ込んだ。
「お前、凛子に一体何をしたんだ?」
「だからさぁ、ちょっと遊んであげただけだってば。凛子ちゃん、手の焼ける子だねぇ。あんなのと良く付き合えるよな、お前。酔っ払って、何度もお前の名前を呼んでたよ。凛子なら奥の部屋にいるぜ。せいぜい慰めてやるんだな」
山下はそう吐き捨てるように言うと、俺の手を振り払い店を出て行った。

俺は一目散に奥の部屋へ向かった。奥には幾つかに仕切られた部屋があり、薄いカーテンの奥で男と女が複数で絡み合っている姿があった。俺はひとつひとつの部屋をカーテン越しに覗き込み、必死の思いで凛子を捜した。
すると一番奥の部屋のカーテンの下から、桃色の帯がだらりと床に垂れ下がっているのが見えた。そこに凛子はいた。彼女はまるで魂を抜かれたかのように、打ちっぱなしのコンクリートの壁にもたれ掛かり、焦点の合わない目が宙を泳いでいた。薬だと直感した。浴衣の裾ははだけ、白く細い肩が剥き出しになっている。傍らには白い下着が無造作に散乱していた。
「凛子!」
トロンとした瞳でゆっくりと彼女がこちらを見た。
「明彦…」
俺はカーテンを開け中に入った。
「嫌、こないで!」
彼女は下着をひとつずつ拾い上げると、後ろを向き、剥き出しになった肩と太ももを浴衣で隠した。手首と足首に、手錠のような痣がくっきりと刻印されていた。痣は身体のあちこちにあった。どんな目に遭わされたのか想像がつく場所にまで付いていた。強姦されたのだ。その光景が浮かんで仕方がない。痛ましさと悔しさと同等の嫉妬。俺は突っ立ったまま、暫くその場に茫然と佇んだ。
「帰ってよ…」
「………」
「帰ってったら!」
凛子はこちらを振り返るなり、持っていた下着をいきなり俺に投げ付け、その場に崩れ落ちた。俺は彼女の方へゆっくりと近付くと、横に座った。
「一体何があったんだ…」
「見れば分かるでしょう…?」
腹の底から怒りが噴き出し吐き気がした。それは山下に対するものなのか、凛子に対してなのか区別が付かなかった。凛子は細い肩を震わせ、声を押し殺して涙を流した。
「何人もの男の人に無理矢理されたわ。身体中を押さえ付けられて、何度も何度も…」
俺は堪らず彼女の肩を抱こうとした。
「私に触らないで!明彦の身体が汚れるわ」
「凛子…」
長い沈黙が続いた。
「帰って。明彦はこんな所にいちゃ駄目よ」
「一緒に帰ろう、凛子」
「私はもう、明彦が知っている私じゃないの…もう、過去には戻れないのよ」
俺は彼女を強く抱き寄せた。
「そんなことない。俺が全部、過去に戻してやる。こんな薄暗い場所じゃなくて、太陽の光が降り注ぐ場所へ凛子を戻してやる」
彼女の乱れた髪からバラのシャンプーの香りが漂った。
「ごめん、凛子。俺、凛子の淋しさに何も気付いてやれなかった。いや、あの日公園で俺は凛子とあの男が抱き合っているのを見ていたんだ。それなのに、自分の胸にそれを全部しまい込んで、凛子に問いただすことすらしなかった…凛子を守るなんて言ったくせに、結局、俺は凛子を守ってやれなかった。全部、俺のせいだ。許してくれ、凛子…」
「全部、自分のせいよ」
彼女は立ち上がると、肩から浴衣をするりと脱ぎ捨て、落ちた下着を拾い上げゆっくりと身に付けた。再び浴衣を羽織ると帯を締め、フラフラとした足取りでその部屋を出ようとした。俺は後ろから彼女の左腕を引っ張った。
「なぁ、一緒に帰ろう…」
俺は着ていたパーカーを彼女の肩に掛けてやった。下駄を履かせると、左手を握り締めたままその店を出た。

階段を上がるといつの間にか雨が降り出していた。アスファルトには幾つもの黒いシミができていた。俺は凛子を連れ、仕方なく近くのビジネスホテルに入った。
部屋に入るとまずトイレに行き、彼女の胃の中の物を全部吐かせた。
その後、凛子をベットに座らせ、冷蔵庫からジンジャーエールを取り出した。
「飲めよ」
彼女はそれに口をつけようとはせず、ずっと俯いたままだった。俺はジンジャーエールをひとくち口に含むと、凛子の唇へ流し入れた。
「喉、渇いただろ?」
「私、汚れているのよ」
俺は浴室に行き、バスタブに湯を溜めた。
「一緒に入ろう、凛子」
彼女を連れて浴室に入った。
俺は服を脱ぎ、彼女の浴衣を脱がせ下着を取った。俺はそのまま彼女をきつく抱き締めた。ふたりで頭から熱いシャワーを浴びた。
「これ、落としたんじゃなかったのか?」
凛子の首には、シルバーのチェーンに通された指輪が輝いていた。
「ちゃんと拾って、ずっと持ってた…」
「そうか…」
シャワーを浴び終わると、ふたりで向かい合わせにバスタブに浸かった。
「こうしていると、気持ちいいな」
「………」
凛子は両足を抱え湯を見つめたまま、何も喋ろうとはしなかった。
俺は彼女の両肩に湯を掛けてやった。
「俺、試験受けるのやめるよ」
凛子が徐に顔を上げた。
「凛子にこんな思いをさせてまで、俺わざわざイギリスへ行く意味なんてないからさ」
「何を言ってるの」
「俺にとって凛子は太陽なんだ。俺さ、太陽の裏側の凛子の淋しさに気付いてやれなかった。凛子、俺から離れようとしてただろ?俺の邪魔にならないように、自分の気持ちを押し殺してさ。あいつの事、本当に好きだったのか?」
凛子は激しく首を横に振った。
「試験に受かったら、俺、凛子をひとり残してイギリスへ行かなくちゃいけない。こんな状態の凛子をひとり日本に置いて行く訳にいかない」
「………」
彼女は何も言わず首に付けていたシルバーのチェーンから指輪を外すと、俺の手のひらに握らせた。目の前の彼女が俺に別れを告げようとしている。凛子はバスタブから出ると、バスタオルで身体の水滴を拭い、バスローブを羽織り無言のまま浴室を出て行った。
左の手のひらの火傷の傷が、やけにズキズキと痛んだ。俺は湯の中でひとり指輪を見つめた。

風呂から上がると凛子は窓際に立ち、雨の降りしきる渋谷の街を見ていた。
「明彦と一緒に過ごす、最初で最後の夜だわ」
「もう一度、初めからやり直そう」
そう言って、俺は彼女の薬指に指輪をはめた。
「沈んだ太陽は必ずまた昇る。俺達、幸せな家庭を作るって約束しただろ。俺はどんな事があっても、ずっと凛子と一緒にいたいんだ。俺と一緒にいて欲しい、頼む」
凛子の大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。俺は彼女の手を取り、唇でその涙を吸い取った。