父の四十九日の法要が済んだ頃には、季節は梅雨に入り、毎日鬱陶しい雨の日々が断続的に続いた。
明彦は本格的に受験勉強を始め、朝の日課の時間もほぼ毎日勉強にあてた。私は附属の大学に進学する予定だったし、何よりも父が亡くなったことで、少しでも家計を支えるために、駅前のケーキ屋でアルバイトを始めることにした。
アルバイトの日は週に三日。放課後授業が終わってからの五時から八時までの3時間。従業員はオーナーの山崎さんを含め、パティシエが三人とフロア担当が、私を含めた四人の計七人。私の主な仕事はフロアでのケーキの販売と、上のカフェでの接客だった。
「初めまして。小川凛子です。初めてのアルバイトで、ご迷惑を沢山お掛けすることもあると思いますが、どうぞ宜しくお願いします」
次にオーナーの山崎さんが、従業員をそれぞれ紹介してくれた。
「こちらが中のチーフの小倉鉄君、それからパティシエの三浦明子さん、フロアの方は右から順番に、田中優子さん、山下潤君、宮田春江さんだ。みんな、小川さんアルバイト始めてだから、きちんとフォローしてあげてくれ」
そう言うと、さっそく仕事に取り掛かった。
私は初めてのアルバイトで右も左も分からず、先ずはケーキの箱の組み立て方から始まり、会計の仕方や接客など、憶えなければならないことが山のようにあった。私はそれらをいちいちメモに取りながら仕事をした。その日は初日にも関わらず、店は混み合っていて、私は忙しく一階と二階を動き回っていた。
「じゃあ、小川さん、これ二階のF席に持って行って!」
「はい!」
先輩の優子にそう言われ、アイスコーヒーとケーキの乗ったトレイを受け取り、後ろを振り向いた途端、ちょうど後ろに居合わせた潤に正面からぶつかってしまった。
「あっ!」
と、声を出した瞬間には既に遅く、潤のサロンはアイスコーヒーでびしょびしょに濡れた。床には割れたグラスとケーキが散乱した。
「すみません、山下さん。大丈夫ですか?」
「あーあ、やっちゃった。小川さん、ぼやっとしてないで、早く片付けてよ!」
優子の激高する声が店内に響き渡った。
「はい、すぐに片付けます」
私は裏の用具箱から箒とちり取りをもってきて、床に飛び散ったグラスの破片とケーキを片付けた。
「小川さん、大丈夫?」
「山下さん、すみませんでした。サロンびしょびしょになっちゃいましたよね?」
「心配ないよ、もう替えてきたから」
潤はそう言うと、私の片付けを一緒に手伝ってくれた。
「痛っ…」
私は焦っていたせいで割れたグラスの破片で、右手の人差し指を切ってしまった。
「指、切っちゃったか。すぐに絆創膏を持ってくるから、待ってて」
潤は急いでレジ横の救急箱から絆創膏を持ってくると私の指を取り、丁寧に巻いてくれた。
「すみません、有難うございました」
「ちょっと、そこのふたり、いつまでやってんのよ!忙しいんだから、さっさとしてよ!」
再び優子のヒステリックな甲高い声が飛んだ。
「田中さん、彼女、今日が初めてなんだから、そんな言い方しなくてもいいだろ」
「あの、山下さん、全部私が悪いので」
「あのさ、田中さん。前から言おうと思ってたんだけど、君、何でそんな言い方しかできないんだ?」
「何?私が何かしたっていうの?」
険悪な空気が流れた。
「この間だって目上の宮田さんに対して、失礼な事を言ってたじゃないか。いくら自分の方が先輩だからって、偉そうにすんなよ!」
「だって宮田さん、いちいちやることが遅いんだもん。イライラしちゃうわ。ちょっと、小川さん、ボーッとしていないで、早く床、拭きなさいよ!」
優子は顔を真っ赤にさせ、私に当たり散らした。
「はい、田中さん、本当にすみませんでした。以後、気を付けます」
私はそう言い、水で濡らしたモップで床を丁寧に拭いた。

午後七時を過ぎ、やっと落ち着いてきた頃、明彦が突然店にやってきた。
「明彦、どうしたの?」
「お疲れ!今ちょうど部活が終わったから、ちょっと凛子の様子を見にきたんだ」
明彦は家で食べるのだと言って、シュークリームを三つ頼んだ。私はシュークリームを箱に詰めながら、明彦と会話をした。ここ数日、昼休み以外は明彦とはまともに話をしていなかった私の心は弾んだ。
「どう?勉強ははかどってる?」
「うん、これから帰ってからも勉強だよ」
「そう、大変ね。あんまり無理しないようにね」
「分かった、凛子も頑張れよ」
「わざわざ、きてくれて有難う」
私は店のドアを開け、明彦の後ろ姿を名残り惜しく見送った。

それからは客もまばらで、店内の清掃や閉店の準備をして八時まで過ごした。
八時になると春江とシャッターを閉め、更衣室への階段を上がった。
「凛子ちゃん、今日は初めてだったから、疲れたでしょう?」
「いいえ、皆さんにご迷惑の掛けっぱなしで、申し訳ないです」
富田春江は気の優しい人物で、母と同様シングルマザーだった。
更衣室に戻ると先に優子が先に着替えをしていた。
「お疲れ様です。今日は色々とご迷惑をお掛けして、すみませんでした」
私は優子に深々と頭を下げた。
「ちょっと、小川さん、今日は初日だったから仕方ないけど、もっとしっかりしてよね」
「はい…」
優子は聖南大学の三年生で、私の二つ上の先輩だった。
「じゃあ、お先します」
そう言うなり、そそくさと更衣室を出て行った。春江も先に帰り、私はひとりで更衣室を簡単に片付け店を出た。

私は駅のホームのベンチに腰を下ろすと、深い溜息を突いた。こんな調子でこの先続くものかと不安が胸を過ったが、今日は初日なのだと自分に言い聞かせ本を開いた。この時間になると、電車の本数は極端に少なくなる。私は次の電車を待つ間、入院中に明彦に貰った詩集を読み始めた。暫くすると不意に左の肩を叩かれた。
「小川さん、お疲れ!」
潤だった。私はベンチを立ち上がり挨拶をした。
「山下さん、お疲れ様です。今日は色々とご迷惑をお掛けして、本当にすみませんでした」
「そんなことないよ。初日にしたら上出来だよ。田中さんはああいう性格だから、あんまり気にしない方がいいよ」
「はい…でも、この先、続けて行けるのか、少し不安になっちゃいました」
「大丈夫だよ。仕事にもそのうちすぐに慣れるだろうし、困ったことがあったら、いつでも相談して」
「有難うございます」
「あっ、それ、銀色夏生じゃん。小川さん、好きなの?」
「山下さん、銀色夏生を知っているんですか?」
「俺も高校の時、彼女から借りて、良く読んだよ。懐かしいな」
「山下さんって、大学は?」
「聖南大学の三年、高校も聖南。その制服も懐かしいなぁ。良く似合ってるね。小川さん、家は何処?」
「私は大和川です。山下さんはどちらなんですか?」
「俺はもう少し先の柴山なんだ。じゃあ、バイトの日は一緒に帰れるね」
「そうですね」
その時ちょうど電車がホームに滑り込んだ。私達は電車に乗り、空いている席に座った。
「小川さんは、うちの大学くるの?」
「はい、その予定です」
「さっき店にきたのって彼氏?」
「はい…一応そうです」
私は急に明彦の話題を振られたせいで、顔が真っ赤になり俯いて答えた。
「一応って、何だよ。小川さんって、純粋だなぁ」
「でも彼、試験に受かったらイギリスへ留学しちゃうんです」
「そうなんだ、じゃあ、淋しくなっちゃうね」
「でも、彼が決めた事なので仕方ないです」
「そっかぁ、俺で良ければそっちの方も話を聞くよ。遠慮なく何でも言ってくれ」
「有難うございます」
潤は気さくな好青年だった。兄がいたらこんなふうだと思うと、彼になら何でも話せる気がした。大和川の駅が近付くと、私は再び潤に挨拶をした。
「今日は色々と有難うございました。これからもどうぞ宜しくお願いします」
「今日は初めてのバイトで疲れただろ。ゆっくり風呂にでも浸かって休むんだぞ」
「はい。じゃあ、お疲れ様でした!」
私はそう言って、電車を降りた。

家にたどり着いたのは十時前だった。私は既にクタクタで、祖母の作った夕飯を電子レンジで温め、キッチンの椅子に座り少しだけ箸を付けた。その時ちょうど母が風呂から上がってきて、冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、私の向かいに座った。
「凛子、アルバイトの初日はどうだった?」
「とにかく疲れたわ。今日は初めてだったし、お客さんも多くて大変だった。おまけに飲み物とケーキの乗ったトレイを床に落としちゃってね。ひどく叱られちゃったわ」
「仕事なんて、始めはみんなそんなものよ」
「そうかしら」
「そうよ、そうやって失敗を繰り返して、大きくなって行くものだわ」
「ねぇ、仕事が終わった後のビールって、そんなに美味しい?」
「そりゃ、別格よ。凛子ももう少ししたら、一緒に飲めるわね」
「私は、お母さんみたいに飲まないわ」
「最近、山口君とはどう?」
「明彦、秋には試験でしょ。受験勉強が忙しくて、最近、あまり話もしてないの」
「そうなの。じゃあ、凛子も淋しいわね」
「仕方ないわ」
私は残した夕飯にラップを掛け、冷蔵庫に閉まった。
「じゃあ、私もお風呂に入ってくるね」
「ゆっくり入ってらっしゃい」
二階に上がりパジャマを取って浴室に向かった。私は疲れていたので簡単にシャワーで全身を洗い流し、さっとバスタブに浸かって風呂を出た。部屋に戻ると、今日店で切った右手の人差し指の絆創膏を取り替えた。潤の事が急に脳裏を過った。