忌引きの七日間が明けると、私は学校へと戻った。久しぶりに土手の上を『僕が僕であるために』を口ずさんで歩いた。いつもの場所まで来ると、明彦は遠くを見つめて土手に座り、私を待っていた。私は明彦が待つ土手の下へと降りて行った。
「明彦、おはよう!久しぶり」
「おはよう、凛子。色々と大変だったな。お父さんのお葬式はどうだった?」
「お陰様で無事に済んだわ。心配掛けちゃってごめんね。密葬だったでしょう、だから最後の日は向こうの奥さんとご親族とうちの家族だけの淋しいものだった」
「そうか、でも、ゆっくり見送ってやれたんだろ?」
「ええ、父の顔をしっかりと目に焼き付けた」
「はい、これ」
明彦は香典袋と小さな紙袋を私に手渡した。
「そんないいのに」
「母さんからだよ。そっちは修学旅行のお土産。大したものじゃないけど」
「有難う。修学旅行はあれからどうだった?」
「三日目は小樽だっただろ。オルゴール堂で、それを見つけたんだ」
袋の中には小さなオルゴールが入っていた。
「ここを回すと、曲が流れるんだ。貸してごらん」
曲は尾崎豊の『OH MY LITTLE GIRL」だった。
朝の空気の中で、オルゴール特有の甘く優しい音色が響き渡った。
「こんなに素敵な物を有難う。大切にするわ。何だか私、いつも明彦に守られてばかり」
「そんなことないさ、凛子だって、いつも俺の事を守ってくれているじゃないか」
「そうかな、私、明彦の事、ちゃんと守れてる?」
「ああ、守ってくれてるさ」
「私ね、明彦とだったら、幸せな家庭を築けると思うの」
「何だよ、急に」
「不図ね、そんな事を思ったの」
「凛子は、子供は何人くらい欲しい?」
「明彦こそ、唐突な質問」
「いや、何人くらい欲しいのかと思ってさ」
「そうだな、三人くらいかしら」
「男の子、それとも女の子?」
「一番上が男の子、真ん中が女の子で、一番下が男の子かな?」
「俺はもっと沢山いてもいいと思うな」
「何人くらい?」
「五人でも六人でも、子供は沢山いたほうが楽しいだろ?そう思わないか?」
「そうね」
「それでさ、凛子が作った弁当を持って、みんなでピクニックへ行くんだ」
「ピクニック?いいわね」
「俺は子供達と追いかけっこをしたり、鬼ごっこをしたりするんだ」
「私は?入れて貰えないの?」
「凛子は、そんな俺達をニコニコしながら、近くで眺めているんだ」
私達は降り注ぐ陽光の下、まだ見ぬ未来の夢を語り合った。
「凛子、今日の放課後は、何か予定あるか?」
「どうして?」
「今日さ、父さんと母さん、旅行に出かけているんだ。俺ちょうどバイト休みだし、良かったらうちに遊びにこないか?」
「そうなの?今日は母もまだ休みを取っているから、放課後は大丈夫よ」

放課後私達は、学園前のケーキ屋でチーズケーキとロールケーキを買い、緑ヶ丘の明彦の家へと向かった。
明彦の家は緑ヶ丘の駅から十五分ほど歩いた、高台の高級住宅地にあった。広い芝生の庭がある瀟洒な造りの邸宅だった。
「わぁ、凄い!ここが明彦の家なの?」
「ああ、成城の家はもう少し小さかったんだけどな。父親の趣味だよ。俺は小さかったけど、杉並の頃の家が一番好きだった」
そう言って、門を開けると玄関まで石畳みの上を歩いた。玄関ポーチの脇にはテラスがあり、大理石のテーブルと椅子が置かれ、季節の花々が見事に飾られていた。
「さぁ、入って」
「じゃあ、お邪魔します」
吹き抜けの玄関ホールを通り抜け、リビングへと案内された。
「外のテラスで待ってて。凛子は紅茶でいいか?」
「うん」
私はリビングの大きな窓を開けてテラスに出た。テラスには私の大好きなパンジーの花やチューリップ、スズランがプランターに植えられセンス良く飾られている。庭には所々に薔薇の花が咲き乱れ、甘い香りを周囲に放っていた。
庭を眺めていると、一匹の小型犬が私の足元へとやってきた。どうやら雑種らしい。明彦がトレイに乗せた紅茶とチーズケーキを持ってくると、眠たげな目を潤ませ鼻を鳴らした。
「リリー、ただいま」
「この子がリリーなのね、可愛い。いいなぁ、私も犬を飼いたかったな。うちとは大違い、素敵なお家だし憧れちゃうな」
「そうか?凛子は女の子だもんな。やっぱりこういう家が好きか?」
「私は普通の家でいいわ。こんなに広い家だったら、家中迷っちゃいそうだもの」
「俺もこういう家は、あんまり好きじゃない」
「どうして?こんなに素敵な家なのに」
「家なんかどうだっていいんだ。大切なのはその家に暮らす家族だろ。家なんか小さくていいから、凛子と子供達の笑い声がいつも絶えない、明るい家を作るのが俺の夢なんだ」
明彦はリリーを抱きかかえ、ポットの紅茶を手際良く入れながら言った。
「俺さ、親父が死んで母さんが今の父親と再婚してから、ずいぶんと酷い事をやってきた。中学の頃には、酒や薬に手を出した事もあった。新しい父親にどうしても馴染めなくてさ。再婚した母さんを恨んだことさえあったよ。自分の存在が何なのか分からなくて、いつも大人達に反抗ばかりしてきた。そんな俺を唯一、認めてくれたのが兄貴だった。兄貴はいつも俺の話に耳を傾けてくれてさ。良く夜中まで、ふたりで色々な話をしたよ。俺、兄貴がいなかったら、今頃、どうなっていたのか分からない。その兄貴が死んでから心を開けるのは、いつの間にかリリーだけになっていた」
「和君の存在は明彦にとって、とても大きかったのね」
「兄貴が去年死んでから、俺は孤独に怯えるようになった。自分の殻に閉じ籠って、周囲の人間をみんな拒絶した。仲間や恋人といても俺の心の孤独感が埋まる事はなかった。凛子と出逢う前の俺は、まるで魂を抜かれた獣みたいに、進むべき方向も分からず、ささくれだった心を抱えて訳もなく彷徨っていた」
私は明彦の告白に暫く耳を傾けた。
「俺はあの日、土手で出逢った凛子に、魂を揺さぶられたんだ」
「私に魂を揺さぶられた?」
「あんなに純粋で真っ直ぐな瞳の女の子に出逢ったのは、初めてだった」

私達はチーズケーキを食べ終わってしまうと、明彦の部屋のある二階へと上がった。
「二階もずいぶんと広いのね」
「奥が父親の書斎で、ここが兄貴の部屋。死んでからもそのままになってる。兄貴も本が好きだった」
明彦が言う通り、和明の部屋の本棚には数多くの書籍が並んでいた。床には本棚に収まり切れなかった本が散乱していた。私は、今は亡き和明に思いを馳せた。
次に明彦の部屋に通された。部屋はきちんと整理整頓され、壁には惑星の描かれたポスターや、一目見ただけでは理解できない、難解な表が沢山貼られていた。本棚には天文に関する本がぎっしりと並んでいる。
「部屋、きれいにしているのね」
「もっと汚い部屋かと思ったか?」
「ううん、男の子の部屋に入ったのなんて、初めてだから。ずいぶんときれいに整理しているんだなぁと思って」
私は壁に貼ってある太陽系の描かれた図を眺めた。
「ねぇ、明彦が天文に興味を持ったのって、いつ頃なの?」
「中学一年の時だった、親父が死んですぐの頃。公園の滑り台に寝っ転がって夜空を見上げてたら、流星が見えてさ。それがきっかけで、天文の本を何冊も買いあさった」
「ふーん、そうなの」
「そこのソファーにでも座って」
明彦は一階から残りのロールケーキと紅茶を運んでくると、私の隣に静かに座った。
「そういえば、凛子のお父さんて、優しそうな人だったよな」
「父ね、私にくれたプゥと同じ物を持っていたの」
「あの犬と同じ物をか?」
「そう、あれより一回り大きい物だけど。後ね、私達と一緒に撮った写真や書き掛けの手紙を沢山残してた」
「やっぱり凛子達のことを、忘れられなかったんだろうな」
「今の奥さんがね、遺品の整理をしていたら、机の奥から出てきたからって、渡してくれたの」
「そうか」
「まだ全部は読んでいないんだけれど、色々な事が書いてあったわ。父は父でずいぶんと苦しんでいたみたい」
「お父さんも凛子達を残して家を出たんだから、それなりの苦悩があったんだろう」
私達はまだ湯気の立つ紅茶を飲み、残りのロールケーキを食べた。
「相変わらず、凛子は大食いだな」
「父にも同じ事を言われたわ」
「凛子、口にクリーム付いてるぞ」
そう言ったと同時に、明彦は私の肩を抱き寄せ、口に付いたクリームを唇で吸い取った。
明彦の長い指が私の髪を優しくかきあげる。
「凛子、俺、お父さんの代わりにはなれないかもしれないけど、これからどんな時も俺がいることを忘れないでくれ。俺が絶対に凛子を守ってやるから…」
何か言おうとしたが、声にならなかった。私は明彦の顔だけを見ていた。私達は西陽の射す部屋の中で唇を重ねた。私の瞼の裏には柔らかな午後の光が溢れ、砕け散った。明彦の唇が私の顎、首、胸元に滑って行き、再び唇をとらえた。
「ひとつにならないか…」
「うん…」
ふたりはそのまま、床に崩れ落ちた。