新千歳空港に着くと、柴田先生が直ぐにチケットの手配をしてくれた。
ロビーで明彦と椅子にもたれ、柴田先生を待った。
「本当にひとりで帰れるのか?」
「うん、大丈夫」
「向こうに着いたら、必ず連絡してくれ。待ってるから」
「分かったわ」
明彦はそれ以上何も言わず、私の左手の薬指の指輪をずっと撫でていた。
私は五時二十分発、ANA4722便で羽田空港に戻ることになった。
チェックインを済ませ、私はひとり搭乗ゲートをくぐった。
「凛子、必ず連絡してくるんだぞ!」
私は振り返り、柴田先生と明彦に一礼した。

羽田空港に着くと私は直ぐに母の携帯電話へ連絡をした。
「お母さん、私。今、羽田に着いたわ。これからタクシーで、そっちに向う」
「…凛子、あの人、さっき息を引き取ったわ」
「………」
「凛子、凛子!」
父が亡くなった?
「とにかく病院でまっているから。消化器科内科の601号室まできて」
「分かった」
それだけ言うと、電話を切った。私はタクシー乗り場で、急な目眩に襲われた。先週あんなに楽しげにビールを飲み、寿司を頬張っていた父が亡くなったなんて。
倒れ込むようにタクシーに乗り込むと、運転手に行き先を告げ、急いで病院へと向かった。

病院に着きエレベーターで六階の病室に向かうと、廊下の壁に母がもたれ掛かっている姿が見えた。
「お母さん!」
「凛子…さぁ、入って」
病室に入ると三十代半ばくらいの女性がベッドの傍に立っていた。彼女はハンカチで口元を抑え、その目は真っ赤に染まっていた。
「初めまして。小沢の家内の恭子と申します」
「娘の凛子です。合わせてやってもいいですか?」
「ええ、勿論です」
小沢の家内と名乗ったその女性は、小柄で色が白く物腰の柔和な人物だった。
私はその女性に会釈をし、父のベッドへ近付いた。
「お父さん…」
父の両手は胸の上で組まれ、その手に数珠が掛けられていた。
その姿はぐっすりと眠っているかのようで、私には父が亡くなったのだという実感がまるで湧かなかった。
私は濡れた脱脂綿で父の唇を拭いた。
「小沢は半年程前から体調不良を訴えて、お医者様に診ていただいた時には、末期の大腸癌でした。その時には既に手遅れで、全身に癌が転移していました。それからは会社を辞め、ずっと自宅療養していたんです。お医者様には、三ヶ月持てば良い方だと言われていました。先日、凛子さんからお電話をいただいた時には、泣いて喜んでいました。それからの一週間は嘘みたいに元気で。凛子さんに会ってからは、毎日、にこにこしながら穏やかに過ごしていました。昨夜、容体が急変して緊急入院した時には、もう意識が朦朧としていて、うわ言で何度も凛子さんと、弟の俊太郎君のお名前を呼んでいました…」
ベッドサイドのテーブルを見ると、私が父に貰った物より一回り大きな硝子のプードルが置かれていた。
「あの、これは…」
「結婚した当時から小沢がずっと大切にしていた物なんです。いつも書斎の机に置いてありました。小沢、最期に、一匹じゃ淋しいだろうから、これを凛子さんに渡してくれって…渡せば分かるからと言っていました」
私は硝子のプードルを手に取った。
「これ、いただいてもいいんでしょうか?」
「ええ、小沢もきっと喜びます」

間も無く父の遺体は霊安室へ運ばれるとのことだった。
母と私は廊下にある休憩スペースの椅子に腰を下ろした。熱いホットコーヒーを飲みながら、母と父の話をした。
「あの人ね、この間の手紙に、自分の命はもうそう長くはないって書いていたの。自分がしてきたことの天罰が下ったんだろうって。最後に凛子と会う機会を与えてくれて、心から感謝していると書き残していたわ」
「そうだったの。あの日、手紙を読んでいたお母さんの様子が、何だか少しおかしかったから、どうしたのかな…って、思ってたけど、まさかこんなに早く逝っちゃうなんて、思いもしなかった」
「その犬、どうしたの?」
「お母さんにはずっと黙っていたけど、お父さんが家を出て行く最後の日に私、駅まで送って行ったでしょう。その時、お父さん、これと同じ物を私にくれたの」
「そうだったの。ママ全然、知らなかったわ」
「ごめんなさい、今まで黙っていて」
「いいのよ、ママね、もうパパは凛子や俊太郎のこと、忘れちゃっただろうなって、勝手に思い込んでた。今さら会っても話すことなんて何もないだろうなって。こんなことになるなら、もっと早くに会わせてあげるべきだったわ…ママの方こそごめんなさい」
「ううん、最期には間に合わなかったけれど、六年振りに会えたんだもの。きっと虫の知らせってやつだったのかもしれない。ねぇ、お葬式はどうなるの?」
「小沢さんね、身寄りも少ないから、密葬にするって仰っていたわ」
「私や俊は出席させて貰えるの?」
「勿論よ。小沢さんも、是非そうしてくださいって言ってくださったの。あの方、まだお若いのにしっかりしていらして、本当に良い方だわ。ママね、パパが彼女に惹かれた気持ちが分かった気がするの」
「うん、私も何となく分かった。お父さんね、この間会った時に言ってたの。お父さんは、お母さんや私達の事も愛していた。だけどそれ以上に、今の奥さんの事を愛してしまったんだって」
「そう…」