2001年1月

朝の澄み切った空気を肺いっぱいに吸い込む。やがて息が続かなくなり、吐いた息は真っ白い吐息となった。
私はピーコートのポケットに両手を滑り込ませた。今朝はいつもに比べると、幾分か寒かった。その分、尖った空気は冷たい薄荷水のような香りがした。

通常の登校時間より、二時間も早いこの時間は、他の生徒の姿は誰ひとり見当たらない。
郊外にあるこの高校の周りには、まだ手付かずの自然が山ほど残っている。
前日の土砂降りが嘘のような快晴だった。
真っ青な青空にコンパスでくり抜いたように、太陽がくっきりと白く強い光を放っている。
雨に濡れそぼった草花や、木々の放つ匂いに、私は満たされた。土手の途中に咲くヤブツバキの花の前で足を止める。雫をたっぷり含んだ花弁にそっと鼻を近付け、その甘い蜜の香りを楽しんだ。私は季節ごとの草木を眺め、植物の放つ清潔な香りを吸い込むのが好きだった。
昨夜の雨と寒さのせいで、土手の上には霜が降りていて、一歩ずつ歩く度にぎゅっぎゅっと、靴底で音が鳴った。その音が足裏に響くのが何とも心地良く、私はいつもより軽快な足取りで土手の上を闊歩した。
早朝独特の空気感を独り占めしたくて、私は毎朝この時間にひとり登校するのだ。

私の通うこの聖南学園高校は、私立の共学校なのだが、都内の学校などとは異なり、自然の趣をそのままに生かした、少し変わった造りをしている。山形出身の前校長が、『自然と自由が人を育てる』をモットーに、設立されたと聞いている。今、私が歩いている土手の上も、実は学園の敷地内で、校門は校舎の裏手に人目を憚るように、ひっそり佇んでいる。だから初めてこの学園を訪れる人は、一体何処が校門なのかさえ分からない。
広大な敷地を土手がぐるりと取り囲み、手前から一年生、二年生、三年生の校舎と続けて三棟並んで建っている。それぞれの校舎には別々の校庭があり、一年生の校庭は大きなグラウンド、二年生と三年生の校庭は、芝生になっている。花壇には季節ごとに色とりどりの花々が咲き乱れている。また所々に噴水のある池があって、今はうっすらと氷が張っているが、暖かくなると鯉が悠々と泳ぎ回り、初夏には亀が背に乗り合って、甲羅干しをする姿も見られる。三年生の校舎の裏手は、うっそうとした林で、秋ともなると枯葉と共に、銀杏やどんぐりの実でいっぱいになる。少し離れた場所には附属の大学もあり、ここの生徒の大半がエスカレーター式に、大学へと進学する。この高校では基本的に一年生から三年生まで、クラス替えはない。だから、担任の教師も三年間同じクラスを担当する。
私は毎朝、土手の下の自分だけの特等席で読書を楽しんだ。時にはボーッと景色を眺めながら朝のひと時を過ごし、校庭にある花壇の花や草木を、ゆっくりと心行くまで愛でる。季節によっては池の鯉に餌をやったり、林の中を散策してから教室へ向かうのが毎朝の日課となっていた。
今朝も土手の上を鼻歌混じりで歩いていた。いつもの場所までくると、私はスカートの裾を持ち、土手の下へ降りようとした。
すると制服を着た見知らぬ男子生徒がひとり、耳にイヤホンを付け寝転んでいるではないか。彼もまた、鼻歌を口ずさんでいる。
驚きと共に、自分の特等席を奪われた気分で、私は慌てて声を掛けた。
「あの、こんな寒い所で何してるんですかー?」
返事がない。
仕方なく私はもう一度声を掛けた。
「あのー…」
「君も尾崎、好きなんだ」
彼は微動だもせず、寝転んだままの態勢で、逆に問い返してきた。
「今どき、『僕が僕であるために』なんて、渋いよな」
私は思わず、カッとなって言い返そうとしたが、彼はそんな思いも他所に続けざまに言った。
「聖南学園に行きたいんだけど、校門が何処か分からんなくてさ」
上体を起こした彼の背は、土手に寝そべっていたせいで、土と芝で汚れていた。
私は彼の背に向かって叫んだ。
「聖南学園なら、もうここですけど、あなたは?」
彼は私の問い掛けに答える素振りも見せず、
「2Bに行く前に、まずは職員室か…」
と、独り言のように呟いた。鞄を持って徐に立ち上がると、ピーコートについた土と芝を大雑把に手で払いながら、こちらへと近付いてくる。
朝日が反射して彼の顔は良く分からなかったが、かなりの長身らしく、肩幅が広くがっしりとしていた。その肩幅とは対照的に、足はやけにスラリとしていて、高校生というよりは、大人の男性に近い風貌の持ち主だった。
そういえば数日前に、担任の柴田先生から今日、転校生がくる旨を聞かされていたことを思い出した。
「あの、もしかして、うちのクラスの転校生って…」
「そう。俺、転校生のヤマグチアキヒコ」
土手の上まできた彼は、私の前に立つと淀みない口調でそう言った。微笑んだ時に、唇の隙間から溢れる白い歯に、朝日が反射して雪のように白く輝くのが印象的だった。私は不意に小学校五年生のクリスマスイブに出逢った少年を思い出した。先程は光線の加減で良く分からなかったが、短髪で長身の彼は鼻梁がツンと高く、端正な顔立ちをしている。その姿は同じクラスの男子生徒とは、比べ物にならない程、何処か憂鬱で大人びていた。
「あれ、ハンカチ忘れたかな?」
彼はピーコートの両ポケットを探っている。
私はお気に入りのバーバリーのハンカチを急いで取り出した。
「あの…良かったら、これどうぞ」
その時、視線と視線がぶつかり、思わず私は俯いた。
「有難う。じゃあ、借りるね」
そう言って、彼は素直に私の手からハンカチを受け取った。その時、一瞬指先に触れ、私は慌てて手を引っ込めた。長くて形の良い指だった。瞬間、彼の指先から僅かな熱が心臓まで伝わり、胸の奥でドクンとひとつ大きな音を立てた。
さながら彫刻のように美しく整った目鼻立ち。高校生とは思えぬそのしなやかな動きに、私は気付くと目を奪われていた。
「何?俺の顔に何か付いてる?」
我に返った私は、
「ごめんなさい。こんなに早い時間にくる生徒なんて、いつも私くらいだから…」
「だから?」
「だからびっくりしちゃって…」
胸の鼓動が次第に激しく波打ち、落ち着かなくなった私は咄嗟に、そんな言い訳をした。
「君も2Bの子なんだ?」
「はい、初めまして。オガワリンコと申します」
私は緊張のあまり胃がムカムカし、ごくりと唾を飲み込むと、思わず敬語でそう答えていた。
彼は咳払いをひとつすると、口元に拳を作って、クスクス笑った。
「リンコちゃんか、よろしく。林檎みたいな名前だな。顔も真っ赤だし、リンゴちゃんだな」
私はからかわれた恥ずかしさから、居ても立っても居られなくなった。彼から視線を逸らしたまま、その場に立っているのが精一杯だった。
ヤマグチアキヒコは、身体を傾げるように笑い、
「尾崎、好きなんだ?」
と、言った。
みるみる顔が紅潮して行くのが分かった。今どき尾崎だなんて、ダサい奴だと思われたに決まっている。こんなことなら親友の美奈子の言うように、せめて普段からメイクくらいしておくべきだった。後悔しても、時すでに遅しとはまさにこのことである。鼻歌まで聞かれた挙句にすっぴんをからかわれ、最悪の気分だった。
「ねぇ、リンゴちゃん、悪いんだけど、職員室まで案内して貰える?」
「はい…」
私は仕方なく、ヤマグチアキヒコと肩を並べて、土手の上を歩くこととなった。
「一昨日、手続きにきた時には職員室のすぐ脇の通用口から入ったから、校門が何処なのか、さっぱり分かんなくてさ」
「みんな始めは校門が一体何処なのか分からなくて戸惑うんです」
「やっぱりそうなんだ」
「はい」
「ねぇ、リンゴちゃん」
「はい?」
「その変な敬語、何?」
「えっ…」
「さっきからずっと敬語だからさ」
「すみません。私、全然気が付きませんでした」
「だから、ほら」
そう言って、彼は白い歯を見せて、またクスクスと笑った。

ヤマグチアキヒコを職員室まで送ると、私はその場に、へたり込みそうになった。
真冬だというのに、制服のシャツは汗でびっしょり濡れていた。気付くと左手に持っていたはずの鞄が地面に転がっていた。
膿が痺れ、全身から力が抜け落ちて行く。
まったく何という一日の始まりだろう。
いつもは平穏な朝なのに、今朝は何もかもが180度違っていた。