緑ヶ丘から銀座まではバスと電車を何本か乗り継がなければならない。私達は少し早目に駅を出た。
銀座に着いたのは、二時を少し回った頃だった。
「少し早く着き過ぎちゃった。どうしようか?」
「そうだ俺さ、修学旅行に着ていく服を見たいんだ」
「じゃあ、私が選んであげる」
そう言って、私達ふたりは銀座の街へ繰り出した。
何軒かの店を回り、私達は初めてのショッピングを楽しんだ。
「ねぇ、このシャツとセーター、明彦に似合うと思うけどな」
「うん。じゃあこれにしよう。これに合わせてチノパンも欲しいんだ」
今度はパンツ売り場へ行き、先程選んだセーターに合わせてパンツを選んだ。
「良し、これで買い物は終了。そろそろちょうどいい時間なんじゃないのか?」
「明彦、何だか私、緊張してきちゃった」
「大丈夫。さぁ、行こう」
明彦は私の手を取ると三越のある、四丁目の交差点へと向かった。
腕時計に目をやると、約束の時刻の二十分前だった。私は一向に落ち着かず、辺りをきょろきょろと見渡した。
するとその時、日産ギャラリーのほうから、横断歩道を掛けてくるひとりの男性の姿が目に止まった。

「お父さん!」

私は思わず叫んでいた。
「凛子!向こう側から直ぐに分かったよ。久しぶりだな。こんなに大きくなって…」
父は眼鏡を取ると、目を細めて私を見た。
「私も直ぐにお父さんだって分かったわ」
父は昔生やしていなかった髭を口元に蓄えていた。
「こちらは?」
「あのね、私ひとりで会いにくる勇気がなくて、一緒に着いてきて貰ったの。クラスメイトの山口明彦君」
「初めまして、山口といいます。凛子さんとは普段から親しくさせて貰っています。久しぶりの再会なのに、着いてきてしまったりしてすみません。凛子、もう大丈夫だよな?」
「明彦、わざわざ有難う。また明日、学校で!」
「うん、じゃあな!」
明彦はそう言うと、父に頭を下げ、四丁目の交差点を和光のほうへと走って行った。
「今の青年は彼氏かい?」
「うーんとね、私達、同志なの」
「同志?いい若者じゃないか。凛子と良くお似合いだ」
父に会うまでの緊張が嘘の様に、会った途端、自然と会話を交わしていた。
夕食までにはまだ時間があったので、私達は父が仕事でよく使うという喫茶店に足を運んだ。
その喫茶店は四丁目の路地を少し入った雑居ビルの三階にあり、日曜日にしては人も疎らで、クラシックの流れる静かな店だった。
父は慣れているらしく、「いつもの」と言うと、私に何が良いかを尋ねた。私はアイスココアを注文した。
「お父さん、日曜日なのにスーツなんか着て、今日もしかして仕事だったの?」
「いいや、久しぶりに凛子に会うから、お洒落してきたんだ」
父はそんな冗談を口にした。
「今も前と同じ仕事をしているの?」
「今は転職をして出版社に勤めているんだ」
「出版社?」
「そう。今はこれでも編集長なんだぞ。凛子はこの四月で高校三年生になったんだな」
「そう。来月には修学旅行なの」
「元気そうだな。美枝子や俊太郎も元気にしているか?」
「ええ、お母さんは相変わらずパワフルだわ。俊はこの四月で小学六年生」
「そうか、あれからもう六年だもんな。おばあちゃんは?」
「おばあちゃんも元気よ。お父さんは少し痩せたみたい」
「最近、ダイエットをしているんだ。もう、成人病に気を付けなくちゃいけない年だからな」
「ふーん、そっかぁ」
「凛子、これ」
父は私に伊勢丹の袋を差し出した。
「気持ちだけだが、みんなにプレゼントを買ってきたんだ。凛子のはこれだよ」
父は紙袋から細長い箱を取り出し、私に手渡した。リボンと包みを丁寧に取り箱を開けると、中にはシルバーのボールペンが入っていた。
「わぁ、素敵。ちゃんと名前まで入ってる」
「何にしていいのか良く分からなくてな。そんな物でごめんよ。それだったらいつでも持ち歩けるかと思ってね」
「凄く嬉しい」
「あとこれはみんなの分だよ。荷物になるけど、凛子から渡して貰えるかい?」
「うん、分かった。お父さん、私、お父さんと久しぶりに会うのに何も用意してこなかった。ごめんなさい」
「何を言ってるんだ。凛子にこうして会えただけで、父さんどんなに嬉しいか」
「ねぇ、お父さん。これ憶えてる?」
私はバッグからきんちゃく袋を取り出した。
「凛子、まだ持っていてくれたのか…」
袋からプゥを取り出し、テーブルの上に置いた。
「当たり前じゃない。お父さんが私にくれた大切なプレゼントなんだから」
「懐かしいな。あの日駅で別れる前、ベンチでこれを凛子に渡したんだったな」
「お父さん、缶コーヒーを買ってくれて、一緒に飲んだよね。私、あの後ひとりで公園に行ったの。この袋の中身を見て驚いたわ」
「どうして?」
「お父さん、私がプードルを欲しがっていた事、ちゃんと憶えていてくれたんでしょう?」
「うん。でも、本物のプードルは買ってやれなかったよ」
「でも、私が言った事をちゃんと憶えてくれてたんだなぁって、凄く嬉しかった」
「だが父さんは結局、駄目な父親だった…」
父は俯き加減でコーヒーカップに目を落とした。
「そんなことないわ。私ね、少し成長して、お父さんの気持ちが何となく分かった様な気がするの」
「うん?」
「お父さんはお母さんの事も愛していたのよ。でもそれ以上に、魂と魂が求め合うような人と出逢ってしまったんでしょう?それが今の奥さん」
「そうだな。人生には時々、言葉では説明の付かないような不思議な出逢いがある。言い訳みたいに聞こえるかもしれないが、美枝子やお前達のことも、父さんは愛していた。だがそれ以上に彼女の事を愛してしまったんだ」
「どんな人?」
私はテーブルに身を乗り出して、父の話に耳を傾けた。
「寡黙でなぁ。あまり喋らないが、父さんの思っている事や考えている事を言葉にしなくても、何でもわかってくれるような女性かな」
「そう。その人がお父さんにとっての運命の人だったのね」
「恥ずかしい話だが、そうだったのかもしれない。そういえばさっきの青年、山口君だったかな。彼も凛子にとってそんな人なんじゃないのかい?」
「私達ね、実は三歳の頃に一度出逢っていたの。ほらお父さん、杉並に住んでいた頃、お隣に双子の兄弟がいたでしょう。明彦はね、その弟さんのほうだったの。今年の一月に今の学園に転校してきたんだけれど、私達お互いそんなこと全然知らなくて。でも気が付いたら、明彦はいつも私の傍にいてくれた」
「ああ、あの杉並の。そうか、それは運命じゃなくて宿命だな」
父は口髭を撫でながら言った。
「宿命?お母さんは運命だって言ってたわ」
「宿命は前世から定まっている運命のことだよ」
「ふーん、宿命かぁ…」
「凛子も大人になったんだな。どんな時も彼を信じて付いて行きなさい。彼なら安心して凛子を任せられそうだ。これはお父さんの直感だ」
父との会話は途切れることなく続いた。私達は四時間近くをその喫茶店で過ごし、その後築地の寿司屋へ向かった。

「今日は凛子の好きな物を注文していいぞ」
「本当に?」
「ああ、何でも好きな物を頼みなさい」
「でもここ、高いんじゃない?」
「変な心配はいいから、早く頼もう」
「じゃあ、甘えちゃおう。私、中トロと生だこと穴子をください。お父さんは?」
「父さんは鯵とかんぱち、それから甘エビにしよう。そういえば凛子は、ウニが嫌いだったな」
「今でも好きじゃないわ。お父さんはいつも私に玉子をくれたわね」
「そんなことまで良く憶えているな」
父は瓶ビールを二本も頼み良く飲んだ。
「ねぇ、昔、家族で伊豆に旅行に行った時、浜辺で私のビーチサンダルが流されちゃって、お父さんが沖まで泳いで取りに行ってくれたよね」
「そんなこともあったな」
「あのビーチサンダル、まだ家にあるわよ」
「本当か、懐かしいな」
「浜辺でバーベキューもやったね」
「トウモロコシが真っ黒に焦げて、凛子は大泣きしていたな」
「だって、トウモロコシ大好きだったんだもん」
「そういえば、スイカ割りもしたな」
「うん。お父さん、私に意地悪して全然違う場所を教えたよね」
「ははっ、そうだ。浜辺で食べたスイカ、美味かったな」
父との思い出は少なかったが、話が尽きることはなかった。
「あー、美味しかった。お腹いっぱい」
「良く食べたな。大食いなところも昔とちっとも変わらないな」
「ねぇ、お父さん。これからはこうしてたまに会おうよ」
「凛子はいいのか?」
「だってお父さんと会ったら、こんなに美味しい物が食べられるんだもの!」
私は父の肩を叩き冗談を言った。
会計を済ませ店を出たのは十時過ぎだった。
「凛子、今日は遠いのにわざわざ会いにきてくれて有難う」
「お父さんこそ、色々、有難う。じゃあ、また来月にでも会おうね」
「ああ。身体には気を付けるんだぞ、凛子」
父とさっそく来月にまた会う約束をし、駅で別れた。

「ただいま!」
家に辿り着いたのは、十二時少し前だった。
母はリビングのソファに座りテレビのニュースを観ながら、ビールを飲んでいた。
「あらお帰り、凛子。お父さんとのデートは楽しかった?」
「うん、築地でお寿司をご馳走して貰っちゃった」
「そう、それは良かったわね」
「はいこれ、お父さんからのお土産。みんなに渡してくれって」
私は伊勢丹の紙袋を母に差し出した。
「わざわざこんなに気を遣わなくてもいいのにね。一体、何かしら?」
『美枝子へ』と書かれた封筒が添えられた箱の包みを、母はソファにもたれながら、ビリビリと破いた。
中身は母が好きな淡い桃色のワンピースだった。
「まぁ、素敵。ママが大好きな色だわ」
母は立ち上がってワンピースを身体に合わせると鏡を見た。
「どう、似合う?」
「うん。とっても似合ってるわ。お父さん、お母さんが好きな色、ちゃんと憶えていたのね」
「本当ね。あの人が私の好きな色を憶えているなんて、夢にも思わなかったわ」
母はワンピースをソファに置いて、再び座ると飲みかけのビールに口を付けながら、父からの手紙を読み始めた。
私は母の隣で途中までニュースを観ていたが、時間も遅かったので先に風呂に入ろうと思い声を掛けた。
母は私の声が耳に入らなかったのか、便箋から目を離そうとせず食い入る様に手紙を読んでいる。
私はもう一度、母に声を掛けた。
「お母さん、私、お風呂、先に入ってもいい?」
「ええ、いいわよ。先に入って」
何だか上の空で様子がおかしい。
だが、私は母が酔っ払っているのかと思い、大して気にも止めず、二階へと上がった。
パジャマを取って二階から下りてくると、母はどうやら手紙を読み終えたらしく、残りのビールをちびちびひとりで飲んでいた。その背が何だか切なくなるくらい、淋しそうに見えた。