そしてその晩、俺は小川邸にお世話になることとなった。
家へ着くと、凛子のお母さんが玄関から顔を出して待っていた。
「お帰りなさい。狭い所だけど、さぁ、どうぞ上がって」
そう言って、快く俺を迎え入れてくれた。
「本当にいいんでしょうか?」
「もう、山口君ったら、変な気を遣わないで、早く上がりなさいな。お夕飯、まだなんでしょう?」
「はい…すみません。じゃあ、お邪魔します」
「お母さん、明彦、頭に怪我をしているの。うちに救急箱、あったよね?」
凛子が俺の学生鞄を持ち、右手を引っ張りながら、リビングへと通してくれた。
「あら、大丈夫?ちょっと見せて」
凛子のお母さんは俺をソファに座らせると、後頭部にそっと触れた。少し照れ臭く俺は苦笑した。
「もう血も止まっているし、傷もそんなに深くないみたいだから大丈夫よ。一応、消毒して、ガーゼを貼っておきましょう。凛子、押入れに救急箱があるから、持ってきて!」
「分かった。後は私がやるから大丈夫!」

俺はリビングのソファで、凛子のされるがままになっていた。
「いてっ、滲みる!」
「もう、男の子なんだからこれ位、我慢しなさい!」
凛子は手早く消毒をし、薬を塗ってガーゼで傷口を止めてくれた。
その間、凛子のお母さんは食事の支度をしてくれた。
「こんなものしかなくて、ごめんなさいね。山口君のお口に合うかしら?」
出てきたのは、かぼちゃの煮っころがしと、茄子とピーマンの肉詰め、それに大盛りのご飯と味噌汁だった。
「こんなにまでしていただいて、本当に有難うございます。さっそくいただきます」
俺はとにかく腹が減っていたので、あっという間に全てをたいらげた。
「茄子とピーマンの肉詰めは、私が作ったの。どう、美味しかった?」
「うん。どれも美味しかったよ」
「本当に?」
その頃には、凛子のおばあちゃんと弟までが、リビングに集まってきていた。
「あんた、本当にいい男だねぇ。凛子にはもったいないくらいだわ」
「ちょっと、おばあちゃん、失礼でしょう!」
「ねぇ、お兄ちゃん、凛子の恋人?」
「もうっ、違うの。明彦はただのクラスメイト!」
「本当か?付き合っているようにしか、見えないけどな」
「君が凛子の弟か、名前は?」
「俊太郎!」
「俊太郎か、俺と凛子は同志なんだ」
「どうしって、何?」
「お互い心と心が同んなじ方向を向いていることを言うんだ」
「ふーん、それで凛子のどのへんがいいんだよ」
「そうだな、強くて逞しくて優しいところかな?」
「凛子は学校でも強いんだな。俺にもいっつも怒るんだぜ。どうしかぁ、男と女って良く分からないよな」
「どうしは男同士だっていいんだぞ。君と俺も同志になるか?」
「うん、なるー!」
俊太郎はそんな生意気なことを言って、みんなを笑わせた。凛子は顔を真っ赤にさせながら大慌てをし、家中に笑いが沸き起こった。俊太郎は俺に良く懐き、一緒にプロレスごっこをして遊んだ。
こんなに賑やかなひと時を過ごすのは、一体何年振りだろう。俺はいつの間にか、懐かしく優しい時間に包まれていた。

ふと時計を見ると、もう十一時半を過ぎていた。
「山口君、お風呂変えておいたから、良かったらどうぞ」
「本当に何から何まですみません…皆さんも、僕に気を遣わずに、もう休んでください」
そう言って、ボストンバッグからTシャツとスエットを出そうとした時、床に何かが落ちた。
「山口君、これ落ちたわよ」
「すみません」
それは家を出てくる時に、急いでブレザーの内ポケットに入れてきた写真だった。
「これ、僕の昔の家族の写真なんです。それは父と、亡くなった双子の兄です」
「えっ、明彦って、双子だったの?」
「うん。そうなんだ」
凛子が頭の上から写真を覗き込んだ。
家の門前で、父が兄貴を肩車して写っている写真だった。
「村田って…ねぇ、明彦のもとの名字って、村田っていうの?」
「ああ」
「ねぇ、明彦、ちょっと写真貸して」
そう言って、凛子は俺の手から写真を受け取ると、暫く食い入るように見つめていた。
「お母さん、これ、和君じゃない?こっちは、和君のママ…」
「えっ?」
「ほら、ここに写っているの、うちの昔の家…」
「本当だわ。これ、恵子さんじゃない。ちょっと、この写真、私が撮ったものだわ」
「あの…どういうことなんでしょうか?何故、僕の昔の家族のことをそんなに良くご存知なんですか?」
凛子のお母さんは、ソファに深く腰掛けると話し始めた。
「ねぇ、山口君。この写真に写っているの、あなたのお兄さんなのよね?」
「はい、そうですけど…」
「山口君、この頃、杉並に住んでいなかった?」
「はい、そうですけど、それが何か?」
「実はね、私達一家もこの頃杉並に住んでいて、うちのお隣に双子のご兄弟がいらっしゃったの….そのご家族は、村田さんといってね、上のお兄ちゃんが和君、下の弟さんが明君といったわ…」
「それって、まさか…」

“明君”

俺は幼い頃、母からずっとそう呼ばれていた。
「和君と凛子は保育園が一緒だったから、しょっちゅう親しくしていただいて。あなた、三歳の頃、心臓を悪くして入院してたでしょう?」
「はい。かなり悪かったそうで、生きるか死ぬかの瀬戸際だったそうです」
「あなたのお見舞いにも、三歳の凛子を連れて行ったわ」
「それ、本当なんですか?」
「こっちの恵子さんに抱かれている写真が、山口君、あなたなのね?」
「はい。生まれてすぐの僕です」
「あなたと凛子は、三歳の頃、あなたの入院していた病院で、すでに出逢っていたんだわ…」
凛子のお母さんは信じられないといった様子で、いつまでも写真を見つめていた。
あの土手で凛子に出逢った時、俺は何か特別なものを彼女に感じていた…それよりもずっと前、三歳の頃にふたりがすでに出逢っていたなんて。
「他の写真が何処かにある筈よ。きっと、凛子のアルバムだわ」
そういえば、今日家を飛び出す前、母が昔の知り合いと長電話していたことを急に思い出した。
「今日うちの母が電話していた相手って、もしかして、お母さんだったんですか?」
「どうやらそういうことみたいね。恵子さん再婚なさって、今は山口という姓に変わったと言ってらしたわ」
「明彦、ちょっときて!」
凛子に腕を引っ張られ、俺は二階の彼女の部屋へと連れて行かれた。
部屋に入るなり、クローゼットから一冊の古いアルバムを出してきて、俺の目の前に差し出した。
アルバムの表紙には、凛子のお母さんが書いたのだろう、

“凛子 三歳”

と、書かれていた。
俺と凛子はベッドに座り、アルバムのページを一枚ずつめくっていった。
「見て、和君よ。去年、事故でなくなられたって聞いた。私、前に明彦のお母様にも、偶然スーパーで会っているのよ。和君のこともその時に聞いたの。それなのに、全然、気が付かなかった。だって明彦、一人っ子だなんていうから。まさかあの村田夫人が、明彦のお母様だったなんて…」
「ごめん。嘘を突くつもりじゃなかったんだ。だけど去年、兄貴が亡くなってから、俺、今までずっと兄貴の死を受け入れられずにいたんだ。兄貴は今の父親と喧嘩をして、家を飛び出して事故に遭った。自転車に乗っていて、トラックと正面衝突をして即死だった…」
「そうだったの…」
アルバムには兄貴と凛子が、追い駆けっこしている写真があった。他にも兄貴が何かいたずらをして凛子が泣いている写真、一緒にプールで水遊びをしている写真、保育園だろうか?ふたりで眠っている写真まであった。
そしてそのページの一番下に、鼻からチューブを入れられている少年と、凛子と思われる少女がふたり並んでベッドの上で写っている写真があった。俺だと思われるその少年はパジャマ姿で、青い折り紙で折られた兜を頭に被っていた。

“五月五日 端午の節句 明君の病院にて”

と、下に小さなシールが貼られていた。
「三歳の頃の俺だ。そういえば、これ…」
俺はブレザーの内ポケットに突っ込んできた、白いミトンの手袋を凛子に差し出した。
「これ…どうして明彦がこれを…」
「兄貴の部屋の段ボールに入ってた…」
「もしかして、小学校五年生のクリスマスイブに公園で出逢ったのって和君だったの…嘘、信じられない」
凛子は手袋を握り締め涙を流した。
「和君があの少年だったなんて…」
「ああ…」
「明彦が転校してきた朝、土手で出逢ったのも、偶然なんかじゃなくて必然だったのよ。全ては今日へと繋がっていたんだわ」
「そうだったのかもしれない」
「きっと和君が、こうして再び私達を引き合わせてくれたんだわ」
凛子は立ち上がると机の引き出しから、二冊の本を取り出した。
一冊はボロボロに表紙の擦り切れた『十二夜』、もう一冊は俺が彼女の誕生日に贈ったものだった。
ふたりはベッドに腰掛け、暫く二冊の本を眺めた。