家を出たものの、行く当てなどなかった。
俺は気が付くと携帯電話で、凛子の番号をプッシュしていた。
「もしもし、明彦?こんな時間にどうしたの?」
「ごめん、こんな遅くに電話なんかして。急に凛子の声が聞きたくなってさ。悪い、もう切るわ」
「ちょっと待って、どうしたの?何かあったの?」
「………」
「明彦、今、何処にいるの?私、すぐに行くから、場所を教えて!」
「こんな時間に出られないだろ」
「大丈夫よ、明彦のことだったら、うちの母も知っているんだし。じゃあ、うちの近くの大和川公園までこられる?」
「うん」
「じゃあ、そこにきて!今から二十分くらいしたら家を出るから」
「迷惑じゃないか?」
「何言ってるのよ、そんな声をして。心配で私が眠れるとでも思うの?必ずきてね、待ってるから」
電話越しに彼女の優しい声が響いた。俺は凛子の明るい声に救われた。

既にバスは最終時刻を過ぎ、俺は大通りに出て仕方なくタクシーを拾った。タクシーに揺られていると、後頭部に鈍痛が走った。俺はバッグからタオルを取り出し頭に当てた。幸い傷は思ったほど深くはなさそうだった。その時突然、学生鞄の中の携帯電話が鳴り出した。見ると母からだった。俺は電話には出ず、

母さん、突然家を飛び出してきたりしてしまってごめん。悪いけど、暫くは帰れない。友達の家にでも泊めてもらうから心配しないで欲しい。リリーを頼む。
明彦

とだけ、メールを送った。
大和川の駅でタクシーを降りると、近くのコンビニエンスストアで公園の場所を聞き、そこから十分ほど歩いた。その間も俺は凛子にどう事情を説明すれば良いのかを考えていた。
公園に着くと凛子は既に先にきていて、子供の様に足をぶらつかせながら、ブランコを漕いでいた。
俺がきたのに気が付くと、
「明彦ー!ねぇ、見て。満月がとってもきれいよ!」
と、夜空の月を指差した。
「本当だ。でも、満月までにはあと少し足りないな」
凛子はひょいっとブランコを降りると、俺のもとに駆けてきた。
「さすがは天文部ね!ちょっと嫌だ、そのタオルどうしたの?血だらけじゃない」
そう言って、俺の手からタオルを奪い取った。
「ちょっとテーブルの角にぶつけて切ったんだ。もう血は止まってるから大丈夫だよ」
「駄目よ、うちに帰れば救急箱があるから、行こう」
強引に連れて行こうとする凛子を制して、俺は言った。
「少し座らないか」
「でも、大丈夫なの?」
凛子は後ろから俺の肩に掴まり背伸びすると、後頭部にそっと手で触れた。
「もう血は止まっているみたい。傷もそんなに深くなさそうだわ。でも、後でちゃんと手当てしなくちゃ」
「うん、分かった」
俺と凛子は並んでブランコに揺られた。
「さっきはごめん、急に電話したりして。家、大丈夫だったか?」
「うん。母にはちゃんと言ってきたから大丈夫。ねぇ、明彦、家出てきたんでしょう」
「どうして?」
「そんな大荷物持ってたら、すぐに分かるわよ」
「ばれたか、やっぱり凛子には敵わないな」
「一体、何があったの?」
「実は父親と大喧嘩して、家を飛び出してきた」
「お父さんと?」
「父親っていっても、本当の親父じゃないんだけどな」
「それ、どういうことなの?」
「凛子には話してなかったけど、俺の本当の父さんは、俺が中学に上がる前に亡くなっているんだ」
「そうだったの…」
「母さんは俺と兄貴を育てるために、銀座のクラブでホステスとして働いていたんだ。それで、その時に客として知り合って再婚したのが、今の父親って訳さ。そいつは、大きな不動産会社の重役でさ、何不自由なくでっかい家で俺達を育ててくれたよ。欲しいものは何でも買い与えてくれたし、高校にも通わせてくれた。でも俺は、そんなに裕福じゃなかったけど、毎週のように花やしきに連れてって行ってくれた父さんが、大好きだったんだ」
「ねぇ、お兄さんて、どういうこと?明彦、一人っ子だって言ってたじゃない」
「今は一人っ子さ、兄貴は去年、事故で死んだ」
「そうだったの…」
「そいつは母さんが何も言わないのをいいことに、外に何人も女を作って、金さえあれば、世の中どうにでもなるって思っているような、最低の奴なんだ。そいつに言われたよ。そんな汚いバイトをして、一体、一日幾ら貰えるんだって…」
俺はいつの間にか、凛子の前で泣いていた。
「明彦…」
徐に凛子の胸が背に当たった。彼女は後ろから、俺を強く抱きしめていた。
「こうしていると、温かいね。あの日、私が記憶を全て取り戻した時も、屋上で明彦がこうして抱きしめてくれたでしょ。憶えてる?」
「ああ、憶えているよ。俺、凛子が壊れてしまうんじゃないかって、不安で堪らなかったんだ…」
「私もね、今、同じ気持ちよ」
凛子は細い指で俺の髪をそっと撫でた。頭に温かいものがポタポタと落ちた。
「明彦、土手で出逢った次の日、私に言ったでしょう。私達は似ているって。私の父はね、私が十歳の時に外に女の人を作って、家を出て行った。前にも少し話したけれど、小学校五年生の時。父と駅前で缶コーヒーを飲みながら、最後の会話をしたの。別れ際に、硝子でできたプードルの置物をくれたわ。父は私がずっと犬を欲しがっていたことを憶えていたのね。それ以来、父とは一度も会ってない」
凛子はそう言ったきり、何も言わなかった。一体、どれほどの時間が経っただろう。俺達は、何か大切なものを壊さないかのように、黙ってブランコに揺られていた。
「さぁ、そろそろ帰ろうか」
「えっ?」
「傷の手当てもしなくちゃいけないし。嫌だ、頬も腫れているじゃない」
凛子が俺のボストンバッグに手を掛けた。
「今日は特別にうちに泊めてあげる。廊下かもしれないけどいい?」
「そんないいよ。純也か輝にでも泊めて貰うから」
「心配しなくても大丈夫よ。うちのお母さん、ヤマグチ君のこと、大好きだから」
「冗談きついな」
「そう?」
凛子は公園から家へと電話をした。凛子のお母さんがどうしても俺に電話を変わるように言っているらしかった。俺は緊張しながら電話に出た。
「あの…山口です。こんな夜分遅くにすみません」
「あら、山口君!お久しぶりね、その節は凛子が色々とお世話になって。そんな所にいないで、早く帰っていらっしゃいよ。廊下で良ければ、泊めてあげてもいいわよ」
横で会話を聞いていた凛子が、舌を出して笑った。