四月に入り俺達は三年生になった。
教室も隣の校舎に移り、『3B』と新しい札が掛けられた。三年生になっても俺と凛子の日課は変わらず続き、この頃には凛子の右足のギプスも完全に取れていた。
俺は天文部に戻り、アルバイトも続けていたので、それなりに忙しい日々を送っていた。

今朝も俺達は土手に寝転んでいた。
「もうすぐ修学旅行だな」
「そうね、楽しみだなぁ」
「そういえば、俺と凛子って、一緒に写真撮ったことってなかったよな」
「うん。修学旅行ではみんなで写真、いっぱい撮ろうね!」
「そうだな。なぁ、それより凛子さぁ、大学はどうするんだ?」
俺は少し前から気になっていたことを切り出した。
「私はここの附属に行くつもりよ。明彦もでしょう?」
俺は迷っていた。
聖南学園に通う生徒の大半が、附属の大学へと進学する。凛子には黙っていたが、俺は父親との間に根深い確執があることや、天文を専門に勉強したいという気持ちから、海外へ留学することも視野に入れていた。だが、凛子のことを考えると、なかなか決心がつかずにいた。
「ここの大学もいいけど、俺、やっぱり天文に興味があるしさ。そっちも真剣に考えてみようと思っているんだ」
「えっ、じゃあうちの大学には行かないつもり?」
「そうじゃないけど、柴田先生にもちょっと相談しているんだ」
「じゃあ、明彦が違う大学へ行ったら、私達離れ離れになっちゃうの?」
凛子は急に上体を起こすと、不安げな顔で俺を見た。
「そうよね…そういうことだってあるよね」
「そんな顔するなよ。まだ何も決まってないんだから」
「だって私達、今まで当たり前のように、ずっと一緒にいたじゃない。明彦がいなくなるなんて、想像したこともなかった…」
「でも結局は、ここの附属に行くと思うけどな」
「本当に?」
「ああ…」
俺の胸は痛んだ。

その日の放課後はアルバイトがあったので、俺はバスに乗り、ガソリンスタンドへ向かった。制服に着替え、いつもの様に仕事を始めた。洗車、給油、精算、見送りなどの他に、仕事は山程あった。ひっきりなしにくるお客を捌き、俺は忙しく走り回っていた。
「有難うございました!」
帽子を取りお客を見送って顔を上げると、目の前に凛子が立っていた。
「ごめん、忙しい?」
「ちょうどこれから休憩なんだ。裏にベンチがあるから、そこへ行こうか」
そう言って、凛子を裏の休憩所へ誘った。
「明彦がどんな所でバイトしているのか、急に気になっちゃって…」
「ドロドロだろ」
「ううん、ちゃんと働いているのね。はいこれ、差し入れ。駅前のケーキ屋さんのマドレーヌ。何人いるのか分からなかったから、数は適当よ」
「有難う。後でみんなでいただくよ」
凛子は何か言いたそうだった。
いや、何かを言いにきたのだろう。だが、俺が腕時計を気にしているのを察すると、
「じゃあ、頑張ってね。明彦が働いているところを見られて嬉しかったわ」
と、満面の笑みを作り、小走りに走り去って行った。俺は立ち上がり、凛子の後ろ姿を見送るしかなかった。

それから暫くしたある日のことだった。アルバイトから家へ戻ると、母が珍しくダイニングチェアに座り込み、電話をしているところだった。
「本当に懐かしくって。長くなってしまって、ごめんなさい。じゃあ、次の日曜日、お会いできる?ええ、楽しみにしているわ」
俺はとにかく腹が減っていたので、制服のままキッチンの冷蔵庫から食パンを取り出した。適当にバターを塗り、リビングのソファにもたれながらテレビを付けた。その途端、リリーが尻尾を振って、俺の足元に纏わり付いた。この家で心を許せるのは、もうこの老犬しかいない。リリーは洋犬の雑種の雌犬で、俺が幼い頃、街を彷徨う捨て犬だった。
「明彦、お帰りなさい。昔のお知り合いと久しぶりにお話してたら、ついつい長くなっちゃったわ。ごめんなさい、今すぐ夕食の支度をするわね」
そう言うと、母はキッチンに戻り、夕食の準備を始めた。その時ちょうど玄関チャイムが鳴った。
「あら、お父さんかしら」
玄関へと走って行く母の後をリリーが追って行ったと思ったのも束の間、ドスッという嫌な音と耳をつんざくようなリリーの鳴き声が、廊下に響き渡った。俺は慌てて廊下に出た。廊下には息も絶え絶えのリリーが横たわっていた。
「この糞犬がっ!早く死んじまえ」
「おいっ、何てことすんだよ!」
父親だった。
俺はカッとなり殴りかかろうとしたが、母に強く制止された。
「お帰りなさい。あら、あなた飲んでいらっしゃるの?」
「ああ、今夜予定していた会議がなくなってな。部下を連れて銀座に繰り出したんだ」
「そうでしたの。お食事はどうします?」
母が背広と鞄を受け取りながら聞いた。
「食事は部下と済ませてきた。水だ、水をくれ」
そいつは千鳥足でリビングまで歩いて行った。ドカッというソファに横になる音が聞こえた。リリーを抱き抱えリビングに戻ると、酒の匂いが部屋中に充満していた。
「おい、明彦。そんな汚い犬はさっさと捨ててしまえ。新しいプードルでも買ってやるじゃないか。その方がお前にはお似合いだ」
母がキッチンから持ってきたグラスの水を一気に飲み干すと、そいつはネクタイを緩めながら渋面を作った。
「そういえばお前、ガソリンスタンドなんかでアルバイトしているそうだな」
「………」
俺はこめかみが激しく痙攣するのを感じていた。
「おい、聞いているのか?そんなみっともないアルバイトなんか、今すぐにやめろ」
その男は俺の事実上の父親だった。本当の父は、俺が中学に上がる頃、肺癌で亡くなった。働き者で家族思いの優しい父だった。
日曜日には家族で、浅草の花やしきへ良く行ったものだった。そんな父が突然他界し、母は途方に暮れ、銀座のクラブでホステスとして働き始めた。そこで知り合ったのが、目の前にいる新しい父親だった。父親は所謂エリートで、大きな不動産会社の重役をしていた。俺は新しい父親に馴染めず、何かに付けて衝突をした。
「そんな汚い仕事をやって、一体、一日幾ら貰えるんだ。金なら父さんに言えば、幾らでも出してやるじゃないか」
「あんたに父親面をされる覚えはない」
「まぁ、その話はまたゆっくりすればいいじゃないですか。さぁ、明彦、夕食の準備をするから、こっちに座っていて」
何かを察した母は、俺をダイニングへと呼び寄せた。
「お前がそうやって甘やかすから、こんなことになるんだ。おい、明彦、アルバイトは明日から禁止だ。そんなに金がいるなら、これからは父さんに言え」
そう言うと、ズボンのポケットから財布を取り出し、札束をテーブルの上へ放り投げた。
俺は弱ったリリーを廊下へ出してやると、テーブルの上の札束を手に取り、父親の顔をめがけて投げ付けた。憎悪と憤怒しかなかった。
「お前、何てことをするんだ!」
父親は慌ててソファから飛び上がると、いきなり俺を殴った。
俺は睨み付けながら言った。
「あんたはいつもそうだ。そうやって金さえあれば、何でも解決が付くと思っている。自分の面子がそんなに大事なのか?俺はバイトを辞めるつもりはない。俺は俺のやりたい様にやって生きて行く。こうしてドロドロになって働くことの何が悪い!」
「自分の父親に向かって、その口の聞き方はなんだ!お前がなに不自由なく高校に行っていられるのも、俺のお陰なんだぞ。忘れたのか!」
「ああ、あんたのお陰で俺は何ひとつ不自由なく、生活させて貰ってるよ。だけどな、それが嫌で、俺はバイトを始めたんだ。行く行くは働いて、今までの金も全部返してやるつもりだよ」
「何だと、この野郎!」
父親は声を荒げ、今度は俺の腹を足で蹴飛ばした。その衝撃で頭がテーブルの角にぶつかり、後頭部から血が流れた。
「あなた、酔っ払っているからって、やめてください!」
俺は立ち上がり、腹と後頭部を抑えながら言った。リリーが廊下で激しく吠えているのが聞こえた。
「あんたは最低だ。兄貴が死んだのだって、元はと言えばあんたのせいだ!あんたが外に女なんか作って、あの日それが元で兄貴と口論になったんじゃないか。兄貴はカッとなって自転車で家を飛び出して事故に遭ったんだ。母さんも黙ってないで、何とか言えよ!こいつは外に女を作って好き放題やっているんだぞ!」
「明彦、お母さんのことはいいのよ。だからもうやめて!」
母は俺に縋り付き泣くばかりだった。
「外に愛人なんか作るような奴に、とやかく言われる筋合いはない!俺はあんたを父親だなんて思ったことは一度だってないさ。俺は俺のやりたい様にやって生きて行く」
「明彦、お願い!もうやめて」
「こいつ、言わせておけば好き勝手なことを言いやがって!お前なんかこの家にはいらん、出て行け!」
「ああ、あんたに言われなくても出て行くさ。もうあんたとこの家で一緒に暮らすのなんてまっぴらだ!」

俺は二階の自分の部屋へ駆け上がった。階下で母が何やら叫んでいたが、耳には入らなかった。ボストンバッグに当面必要な荷物を詰めた。隣の兄貴の部屋に行き、段ボール箱に入っていたアルバムから、何枚かの写真を抜き取った。その時、床に白い物が落ちた。見ると小さな白いミトンの手袋だった…。俺はハッとしてそれを拾い上げ、写真と共にブレザーの内ポケットに入れた。滑る様に階段を降りると、一目散に家を飛び出した。