それから一週間後に退院が決まった。
私はその日の朝、母が誕生日にプレゼントしてくれた真新しいブラウスに袖を通した。着替えを済ませベッドに座っていると、母が顔を出した。まだ右足のギプスは取れていなかったので、母に荷物を持って貰い、私は松葉杖を突きながら母とナースステーションへと向かった。
「小川さん、退院おめでとう!」
山田さんが忙しい中、わざわざ見送りにきてくれた。
「娘が色々とお世話になりました」
「いいえ、凛子さんとはこちらこそ親しくさせていただいて…何だか、淋しくなります」
「山田さん、本当に有難うございました。私、これからも頑張ります」
「ええ、小川さんならきっと大丈夫。流星の人によろしくね」
「流星の人って?」
母が不思議そうな顔をした。
「ううん、何でもないの」
私と山田さんは互いにウインクを交わした。
一階で手続きを済ませロビーを出ると、春の柔らかな陽射しが、私の瞼を優しく照らした。病院の前の坂道は桜並木になっていて、舞い踊る桜の花びらは、私に小学五年生のクリスマスイブの夜を思わせた。

翌朝、私は久しぶりの制服に身を包んだ。鏡に自分の姿が映ると、まるで新入生の頃のようなくすぐったい気分が甦った。
私はベッドに腰掛け、読み古した『十二夜』の表紙を暫く眺めていたが、意を決し引き出しの奥へとしまった。代わりに、明彦から誕生日にプレゼントされたまだ新しい文庫本を鞄に入れ家を出た。

電車に揺られていると、懐かしさとともに緊張感が身体中を駆け巡った。
皆は果たして私を受け入れてくれるのだろうか?そんな不安が頭を過ったが、私は先日、美奈子の墓前で約束したことを思い出していた。何があっても美奈子の分まで生きるのだ、と。
学園前で電車を降り、土手に差し掛かると松葉杖を突きながら、左足で一歩一歩大地を踏みしめて歩く。
土手の途中までくると、明彦が大きくこちらへと手を振っていた。
「お帰りー、凛子!」
「ただいまー、明彦!」
ふたりの声がこだまのように、土手に響き渡った。
明彦が私の肩を支えてくれ、土手の斜面をゆっくりと降りた。
「気分はどう?」
「うん。何だか懐かしいわ」
私達は約一ヶ月ぶりに、ふたりで土手に寝転び、青い空を見上げたのだった。
土と芝の香りが懐かしく私を包み込み、充足した朝のひと時を過ごした。
「そうだ、これ。ちゃんともとの持ち主に返さなくちゃ」
私は上体を起こして、鞄からお守りを取り出すと、明彦に手渡した。
「そうだな、凛子が初めて俺にくれたプレゼントだもんな」
「それとね、これも」
「何?」
「これ、私からのお礼。明彦、私に入院中買ってきてくれたけど、まだ読んでいないでしょう?『流星の人』良かったら、読んでみて」
私は例の一節に予めマーカーでラインを引き、手作りの皮の栞を挟んでおいた。
「有難う。この栞、もしかして凛子が作ったのか?」
「そう」
明彦はパラパラと詩集をめくっていたが、栞のはさんであるページで目を留めると、真剣な面持ちでその一節を読んでいる。
「凛子…」
「明彦は私にとっての流星の人なの。私、明彦がいなかったら、今ここにこうしていられたかどうかさえ分からない。こうして全てを乗り越えられたのは、いつも明彦が傍にいてくれたから…本当に有難う」
私は、明彦の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「凛子がいない間、俺、毎朝ここで空を見上げながら、ずっと凛子のことを考えていたんだ。記憶が戻ることが凛子にとって、本当に良いことなのかどうかって…」
「あの晩、記憶を全て取り戻した時、胸が張り裂けるくらい苦しかった。美奈子のもとへ行ってしまおうって、本気で思った。でも、明彦言ってくれたでしょう、美奈子の分まで生きろって。だから私、この先何があっても絶対に生きるって決めたの」
「うん」
「私、職員室へ柴田先生に、挨拶に行ってくる」
「ひとりで行けるか?」
「大丈夫。この松葉杖にも慣れたものだわ」
私は右手の松葉杖を、明彦に向かって小さく振って見せた。

今回の一件で私は、柴田先生にも随分と迷惑を掛けてしまった。先生は私がこの学園に残れるよう、PTAや教育委員会にまで働き掛けてくれたそうだった。そのことで一部のPTAから反発を買い、一時は退職にまで追い込まれたのだと、明彦から聞かされていた。
私は職員室の扉をノックした。
「失礼します」
窓際に佇みコーヒーを飲む柴田先生の姿が見えた。
先生は私に気付くと、
「おー、小川、待っていたんだ。約一ヶ月ぶりだな。どうだ具合は?」
そう言いながら、私の傍まで駆け寄ってきてくれた。
「先生、ご無沙汰しています。今まで色々とご心配やご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありませんでした」
「もう本当に大丈夫なのか?お母さんからも、何度も学校に連絡を貰ってな。相当、心配していたぞ」
「はい。自分でも一時はどうなるのか不安でしたけれど、もう大丈夫です。後はこの右足さえ良くなれば完璧です!」
「そうか」
先生は大きな声で笑った。
あの日から今日まで、先生も相当大変だったに違いない。
教え子の死、PTAとの摩擦、そして自身の進退と、私には計り知れない労苦があっただろう。少し白髪が増えたように見えた。私は先生にどんなに感謝をしてもし尽くせなかった。
「お見舞いにも行ってやれんでごめんな」
「そんなことないです。私、山口君から色々と聞きました。先生がクラスのみんなや親御さん達にも、随分と私のことで尽力してくださったって。先生がいなかったら、私、この学校を辞めていたかもしれません」
「色々あったな。でも、もう大丈夫だから、安心していいぞ」

それから暫くして始業を告げるベルが鳴ると、私と柴田先生は2Bの教室へと向かった。教室の扉の前に立つと、さすがに私の膝はガクガクと震えた。
「じゃあ、入るぞ」
「はい…」
柴田先生が扉を開けた。
「おはよう。はーい、みんな静かに!今日は久しぶりに小川が戻ってきた。小川、入りなさい」
松葉杖を突き、教室の中へと入った途端、あちこちから歓声が上がり、皆が拍手で迎えてくれた。明彦も拍手をしながらこちらを見て微笑んでいる。
やっと戻ってきた、戻ってきたんだ…。
胸に熱いものがこみ上げ、涙ぐみそうになるのを必死に堪えた。
拍手と歓声はいつまでも鳴り止まず、柴田先生が私を席へと促してくれた。
私は松葉杖を窓際に立て掛け席に着いた。
後ろの美奈子の席はそのままになっていた。
美奈子との思い出が甦り、再び目頭が熱くなる。美奈子はもうここにはいない。だが、私の心の中でこれからもずっと、笑ったり泣いたりするのだろう。

一時間目の数学の授業が終わると、結衣と博美が私の席にやってきた。
「凛子、退院おめでとう。入院中はお見舞いにも行けなくてごめん…」
博美が深々と頭を下げた。
「ううん、カードや誕生日のプレゼント、凄く嬉しかった。有難う」
「あたしと博美でね、今までのノートまとめたんだ。良かったら使って」
結衣が表紙に花柄がプリントされたノートを手渡してくれた。
「わぁっ、有難う。これふたりで作ってくれたの?」
「うーんとね、実を言うと、輝と中原君にも手伝ってもらっちゃった」
私達は高らかに笑い合った。