病院からの帰りアルバイト先のガソリンスタンドに向かう途中のバスの中、俺は凛子に真実を伝えるべきなのかどうか迷っていた。真実を知ったら、彼女はその痛みに耐えられるだろうか?
あの日、小野美奈子が屋上から転落したのを目撃した凛子はショックのあまり気を失い、二週間もの間、意識を失ったままだった。昨日やっと意識を取り戻したものの、精神的ショックから記憶の一部を失っている。このまま記憶を取り戻さないほうが、凛子にとっては幸せなのかもしれない。
二週間前のあの日、小野美奈子は救急車ですぐ病院に運ばれたが、病院へ着くと間も無く息を引き取った。
俺は参考人として担任の柴田先生と警察に呼ばれたが、結局、小野の死は“当日の激しい雨と強風による転落死”として処理された。状況が状況だっただけに、小野の両親は娘の死に納得が行かず、学校側と激しく対立し、告訴するとまで言い出した。当然、俺は小野の葬式には出席させて貰えなかった。告別式の朝、ひとり屋上に花を手向け手を合わせた。
俺は柴田先生と純也と輝にだけ、凛子との関係について真実を話していた。小野美奈子の死は、俺にとっても相当ショックな出来事だった。あの日以来、渡辺朋子は学校へ姿を見せず、俺はクラスから孤立し、周囲から冷たい視線を浴びせられた。

“同志”

所詮、凛子との関係を説明したところで、理解を得られるとは思っていなかった。そんな中、柴田先生と純也と輝だけが、変わらず今まで通りに接してくれた。

バイト先に着くと、さっそく制服に着替え、仕事に専念した。
休憩中に純也が差し入れを持ってやって来た。俺達は裏のベンチに腰掛け、純也が持って来たたい焼きを頬張りながら話をした。
「明彦、お前、大丈夫なのか?」
「俺は大丈夫だよ。こうしてバイトをしているほうが、逆に気が紛れるしさ。それよりも凛子のことが心配なんだ」
「そうだな。小川さん、本当のことを知ったら、相当ショックを受けるだろうな」
「事故とはいえ、あの状況で親友が死んだんだ。俺だったらきっと耐えられないと思う」
「うん….明彦、俺に協力出来ることがあったら、何でも言ってくれ」
「ああ、有難う」
純也は俺の気持ちを察してか、それ以上、何も言わなかった。
「バイト中、悪かったな。部活、しばらく休むだろ」
「うん、悪いけどそうさせてもらえると有難い」
「分かった、じゃあ、頑張れよ」
そう言って、純也は帰って行った。

翌日、授業が終わりいつものように花壇で花を摘んでいると、矢沢優衣に声を掛けられた。
「山口君、ちょっといい?」
「ああ」
「凛子のところ、毎日、行ってるんだってね」
「………」
「輝から聞いたわ。凛子、どうしてる?」
「やっと一昨日、意識が戻ったんだ。だけど、相当、精神的にショックを受けているらしくて、記憶の一部が所々、欠落しているんだ。でも、矢沢さんと笹井さんのことは元気か?って、言ってたよ」
「美奈子のことは?」
「まだ何も。君達と同じく元気でいると思っている。あの日のことは、全く憶えていないんだ…俺のことも」
「そうなんだ。あたしと博美ね、輝と中原君から、色々と話を聞いたの」
「えっ?」
「あなたと凛子のこと、本当に誤解だったって言ってた。同志っていう関係については、まだ良く理解できないけど、凛子は美奈子に真剣に協力してたって。あたし達、凛子に何もしてあげられなくて…これ、ふたりで手紙を書いたの。山口君から渡して貰えない?変なことは書いてないから安心して」
「分かった、渡しておくよ。凛子、きっと喜ぶよ」
「美奈子のことは?」
「何とか上手く話す」
「うん。じゃあ、お願いね」
そう言って、矢沢は足早に教室へ戻って行った。

学校が終わると、俺は凛子の病室を訪ねた。
「こんにちは」
彼女はベッドの上で、昨日俺が差し入れた本を読んでいた。
「こんにちは。これ、読んでたの」
「うん」
俺は花瓶の花を変えようと、ベッド脇のサイドテーブルに近寄った。

『尾崎豊メドレー』

「これ、どうしたの?」
「昨夜、母がね、持って来てくれたの。私の机の上に置いてあったからって。ねぇ、『僕が僕であるために』っていう曲、知ってる?」
「これ、俺が凛子に渡したんだ…」
「えっ、そうなの?」
ついこの間のことが懐かしく感じられ、目頭が熱くなった。
「きれいな字ね」
「俺、小学生の頃、書道を習っていたんだ。それより、今日は凛子さんの喜ぶものを預かってきましたよ」
俺は鞄から二つの封筒を取り出した。
「私の喜ぶものって、何?」
「はい、これ。矢沢さんと笹井さんから」
「わぁっ、本当に?」
中にはそれぞれに違った花の写真のカードが入っていて、凛子への励ましの言葉が綴られていた。
「凛子、良かったな」
「うん、嬉しい!でも、美奈子からは?」
「小野さんは書くことがいっぱいあってまとまらないから、また今度にするって…」
「何だ、そうなの。美奈子らしい」
凛子は目を細めて微笑んだ。そんな彼女の姿に胸がチクリと痛んだ。
ふと、凛子の頭に目を遣ると、風呂に入れないせいか、髪がボサボサだった。
「なぁ、凛子、髪の毛、シャンプーしてやろうか?」
「いいよ、そんなの。看護師さんに頼めばやってくれるから」
「俺、シャンプー、上手いんだぞ」
そんな冗談を言って、嫌がる凛子を説得し、半ば無理やり車椅子に乗せ、洗面室へ向かった。
「髪、だいぶ伸びたな」
「うん」
洗面台に凛子を前屈みにさせ、髪をかきあげた。今にも折れてしまいそうなほど、細くて白いうなじだった。俺は制服のシャツを腕まくりし、シャワーでゆっくりと彼女の髪に湯を掛けた。
「お客様、お湯加減はいかがですか?」
「もう嫌だ、明彦ったら笑わせないで」

『明彦』

今、確かに凛子は俺をそう呼んだ。
「凛子、今、俺のこと、明彦って呼んだよな?」
「えっ?」
驚いた凛子は、濡れた髪のまま顔を上げた。水滴がポタポタと床を濡らした。
「ごめんなさい…私、気付かなかった」
「いいんだ、いつもそう呼んでくれてたんだから、嬉しいよ」
彼女の顔の水滴をタオルで丁寧に拭き取りながら、鏡越しに俺は言った。
「さぁ、シャンプーの続きをしよう」
「うん…」
俺は凛子の髪を念入りに洗いながら、彼女のバラのシャンプーの香りを思い出した。
凛子の記憶が自然と戻って来ているのかもしれない。
俺は複雑な気持ちになった。