翌日から母は職場に復帰することになった。二週間、職場の人に無理を言って休みを取っていたそうだ。これ以上、休みを取ることは難しいということだった。
「凛子、本当にひとりで大丈夫?」
私は昨日の件があったので少し気まずかったが、
「もう大丈夫だから、安心して!行ってらっしゃい」
と、努めて明るく母を送り出した。

母が出掛けてからは特にやることもなく、ボーッとテレビを観たり、外を眺めたりして半日あまりを過ごした。早く学校へ戻りたかった。美奈子達は元気にしているだろうか?そんなことを考えていると涙が溢れた。私はひとり病院着の袖口で涙を拭った。

その日の午後、昨日と同じくらいの時間に、ヤマグチさんはやってきた。左手には白い紙にくるんだ桜の枝と、右手には鞄と大きな紙袋を提げていた。
「こんにちは、気分はどう?今日は柴田先生に頼み込んで、桜の枝を一本切らせて貰ったんだ。柴田先生も心配していたよ」
桜の蕾は今にも先ほころびそうなほど、大きく膨らんでいた。
「どうも有難う…」
「どういたしまして。凛子は花や草木が大好きだもんな。こんな狭い病室にいたら、息が詰まっちゃうと思ってさ、今日はこれも持ってきたんだ」
ヤマグチさんは桜の枝を花瓶に活けると、紙袋から沢山の本をテーブルの上に取り出した。
「これだけあれば、少しは暇潰しになるだろ」
「あの…ヤマグチさん」
「せめてヤマグチ君って、呼んでほしいな」
「ごめんなさい、何だかまだ、慣れなくて」
「いいよ、別に」
「私が本を好きなこと、知ってるの?」
「うん、凛子、『十二夜』だって、ボロボロになるまで読んでたじゃないか。だからさ、今日は小説とか詩集を持ってきてみたんだ」
「こんなに沢山、どうしたの?」
「本屋で片っ端から買ってきた。さすがに店の人に変な顔をされたよ」
そう言って、白い歯を綻ばせて笑った。
「わざわざ、私のために?」
そんな心配そうな顔するなよ。俺、バイト始めたんだ。だから、安心して」
「あの…ひとつ聞いてもいい?」
「何?」
「昨日、ヤマグチ君の夢を見たの。私達、学校の土手の下に寝転んで、青い空をふたりで眺めてた」
「思い出したの?」
「ううん、本当にそうだったのかと思って…」
「俺と凛子、毎朝、土手の下で待ち合わせをしていたんだ。毎日毎日、他愛もない話をして、ふたりで大笑いしたり、校庭や林の中を散歩したりしてさ。でも今は、凛子がいないから、ひとりで淋しいよ」
と、小さく笑いながら淋しそうに笑った。
「二週間前のことは、何か知っているの?屋上で、私、意識を失ったって、母が言ってたから」
「ちょっと、色々あったんだ…」
「色々って?母に聞いても、何も教えてくれないの」
ヤマグチ君は窓外に視線を移した。
「もう少し元気になったら、ちゃんと話すよ」
「本当に?」
「ああ、約束だ」
母も彼も私に一体何を隠しているのだろう?
「凛子、いい天気だから、車椅子で、少し外へ出ないか?」
ヤマグチ君は素早く車椅子を組み立てると、私を抱きかかえて座らせてくれた。
「この点滴、早く取れるといいのにな」

病院の庭に出ると、外はすっかり春の空気に包まれていた。花や草木の放つ香りが鼻腔を優しくくすぐった。
「いつの間にか、もう春なのね。美奈子や優衣や博美は、元気にしている?」
「うん、みんな君が早く帰ってくるのを待ってるよ」
「そう、早くみんなに会いたいな」
「すぐに会えるようになるさ、ちゃんと、飯は食ってるか?」
「まだ、あまり食欲がなくて…」
いつの間にかヤマグチ君と、普通に会話を交わしていた。まだ昨日会ったばかりだというのに、何故か懐かしい人のように思え、また胸の奥がざわつくのを感じた。
「凛子、来週、誕生日だな。その日は俺、バイトを休むから、夜、一緒に星を見よう」
「星?何処で?」
「この病院にも、屋上あるだろ?」
「屋上?でも、屋上は怖いから…」
「俺と一緒だから、心配ないよ」
「………」
「凛子、どうした?」
「屋上だけは絶対に嫌なの!」
私は夢と同じことを叫んでいた。