目が覚めると、真っ白な四角い天井がぼんやりと見えた。
「凛子!気が付いたのね」
傍らで青白い顔をした母が覗き込んでいた。
私は悪夢を見ていた。
屋上、土砂降りの雨、ずぶ濡れの美奈子…。
嫌な夢だった。私はどうしてこんな所にいるのだろう?
病院特有の薬臭い香りが鼻を突き、思わず顔を上げると、私はベッドに横たわっていた。見渡すと、ベッド脇に備え付けのサイドテーブルと冷蔵庫がひとつあるだけのこじんまりとした部屋だった。
普段は気丈な母が、ハンカチで目頭を抑えている。
「あなた二週間も眠ったままだったのよ。今、先生を呼んでくるから、ちょっと待っていて」
母はそう言うと、急いで病室を出て行った。
二週間も眠ったままとはどういうことだろう?と腑に落ちぬまま、ベッドから上体を起こそうとした瞬間、全身に痛みが走った。見ると左手首に点滴の針が刺さっていた。左の頬に触れると大きなガーゼが貼られ、右の足首はどうやらギプスで固定されているらしかった。
「あいたたた!」
特に右足首の痛みはひどく、私は思わず声を上げた。
その時、白衣に銀縁眼鏡を掛けた神経質そうな医師と、母が一緒に戻ってきた。
「小川凛子さん、だね。調子はどう?」
カルテと私を交互に見つめながら、四十代半ばくらいの医師が言った。
「先生、この点滴どうにかなりませんか?全身に痛みがあるけれど、これくらいどうってことないです。私、一体どうしちゃったんでしょう?学校に行かなくちゃ」
私はベッドから無理矢理、起き上がろうとした。
「凛子ったら、何を言ってるの。二週間前のこと、憶えていないの?」
母が上体を起こし掛けた私を強く静止した。
「二週間前?今日って何日?」
「学校でのこと憶えていないの?あなた屋上で意識を失って、二週間も目を覚まさなかったのよ。右足は骨折しているし、四十度以上も熱があって、肺炎まで起こし掛けていたんだから」
「ねぇ、小川さん、二週間の学校でのこと、憶えているかな?」
まるで子供を諭すように医師が私に尋ねた。
「えっと…二週間前は学校に行っていたと思います」
「それ以外のことは?何故、頬にそんな大きなガーゼが貼ってあるのかな?右足の骨折のことは憶えてる?」
矢継ぎ早な質問に、私はしどろもどろするばかりだった。脳に薄く膜が掛かったようで、何も思い出せない。
「私、体育の授業で転けたんでしょうか?」
「有難う。色々、質問して悪かったね。もう少し、ゆっくり休もうか」
神経質そうに見えたその医師は、話してみると気さくな人物だった。
カルテに何やら書き込むと、
「お母さん、ちょっといいですか?」
と、しきりに眼鏡を直しながら、母を伴い病室を出て行った。
十分ほどして母が病室に戻ってきた。
「ねぇ、凛子、花瓶のお花きれいでしょ?」
「うん、私の好きな花ばっかり。これ、お母さんが買ってきてくれたの?」
「ううん、山口君がね、学校の先生に特別に許可をいただいて、毎日、届けてくれるのよ。今日もきっと、もうすぐくるわよ」
「ヤマグチ君?誰それ?」
「同じクラスの山口明彦君よ。あなた、分からないの?」

『ヤマグチアキヒコ?』

いくら考えてみても、その名前に憶えはなかった。誰のことを言っているのか、さっぱり見当が付かない。
「こんにちは」
ドアの向こうで、ノックの音と共に声がした。
「あら、噂をすればだわ。山口君、きたわよ!凛子、少し待っていてね」
病室の外でボソボソとした会話が聞こえてきた。
ゆっくりドアが開いたかと思うと、制服姿の男子生徒がひとり現れた。
「やっと意識が戻ったんだね、安心したよ。痩せたな、だいぶ」
初めて見る顔だった。聖南高校の制服を着ていたが、まったく見知らぬ人物だった。彼は長身で大人っぽく、目鼻立ちの整った美しい顔をしていた。だが、それだけだった。目の前の美しい青年と自分とは何ひとつ接点がないように感じられた。
「あの…失礼ですけど、三年生の先輩の方ですか?」
母はいつの間にか病室から居なくなってしまっていた。私が戸惑っていると、彼はそばにあった丸椅子に腰を降ろしながら、耳元で囁いた。
「凛子、本当に分からないのか…?」
私は首を横に傾げた。
「あの…ヤマグチさんでしたよね。今、私のこと、凛子って呼びましたけど、私と親しかったんでしょうか?」
彼の美しい瞳が悲しそうに曇った。
「これ、ふたりで浅草に行った時、君が俺のために買ってくれたんだ」
そう言って、鞄に付いた紫色のお守りを私に見せた。
「私が?ごめんなさい、何のことなのか、分からないです…」
「じゃあ、これは?」
今度は鞄から携帯電話を取り出した。小さなチャームの付いた可愛いらしいストラップを振って見せた。
「君の携帯電話にも、同じものが付いている筈だ」
「すみませんけど、そこの引き出しを開けて貰えますか?」
携帯電話が入っていた。見るとヤマグチさんが言うように、お揃いのストラップが付いていた。
「私達、恋人どうしだったんでしょうか?」
「俺達は恋人なんかよりも、もっとずっと深い所で繋がっていたんだ」
「繋がっていた…?」
私は訳が分からなくなり、急に気分が悪くなった。呼吸が激しく乱れ、嘔吐しそうになるのを必死に堪えた。
「気分、悪いの?」
「ちょっと、頭が混乱してしまって…すみません、母を呼んできて貰えますか?」
「ごめん…焦らなくていいよ。これ、持っていて」
そう言って、ヤマグチさんは鞄からお守りを外すと、私の手に握らせてくれた。長く形の良い指先から僅かな熱が伝わり、意味もなく胸の奥がざわついた。
「ちょっと待っていて、すぐにお母さんを呼んでくるから」
ヤマグチさんは母を呼びに、病室の外へ飛び出して行った。私は手の中のお守りをじっと見つめた。意識は覚醒しているのに、脳に靄が掛かったようになり、やはり何も思い出せない。枕の下にお守りをそっとしまうと、私は横になった。
程なくして母とヤマグチさんが、一緒に戻ってきた。
「本当にすみません。少し混乱させてしまったみたいで…明日またきます」
「いいえ、今日もきてくれて有難う。学校、忙しいんでしょう?無理しないでね」
「いえ、大丈夫です。これ…」
そう言って、母に小さな花束を渡した。それは私の大好きなパンジーの花だった。
「毎日、有難う。じゃあ、気を付けて」
「はい、失礼します」

疲れたせいか、私は浅い眠りに誘われた。そしてふたたび夢を見た。
学校の土手の下に寝転び、私は空を見上げている。
雲ひとつない真っ青な空。
「凛子、おはよう!」
何処からか声がする。
私はゆっくりと身体を起こし、土手の上を見上げた。
先程出逢ったばかりのヤマグチさんが、土手の上から私を覗き込み、優しく微笑んでいる。
「今日は凛子に先を越されたか」
ヤマグチさんはそう言うと、土手を降りてきて、私の横に同じように寝転んだ。
「今日もいい天気だな」
「うん、もうすぐ春だわ」
私は言った。
ふたり並んで空を見上げ、他愛のない会話を交わす。
何故か笑い合うふたり。
「凛子の誕生日には、こうして星を見よう、屋上で」
屋上で?屋上は嫌。怖いもの…」
「怖くなんかないさ、俺が付いてる」
「屋上だけは絶対に嫌!」
そこでハッとして目が覚めた。
私は夢の中で激しくうなされていた。身体中が汗でぐっしょり濡れていた。窓外に目をやると、もう夕暮れだった。

それからしばらくすると、母がトレイに乗せた食事を運んできた。
「あら凛子、目が覚めたのね。どう、少しは気分は良くなった?先生が、今日から普通にご飯を食べていいって」
私は母に尋ねた。
「ねぇ、お母さん。私、屋上で意識を失ったって言ってたけど、二週間前、学校の屋上で何かあったの?」
私は先程の夢が気になり、落ち着かなかった。母は事情を知っているのか、急に口を噤んだ。
「美奈子や博美や優衣は、お見舞いにはきてくれた?」
「先生がね、まだ意識が戻ったばかりだから、今は何も考えずに、ゆっくりしなさいって。興奮したりするのは身体に良くないって、仰っていたわ。お見舞いは、皆さんお断りしているの」
「じゃあ、ヤマグチさんはどうして?あの人さっき、私のことを凛子って呼んだわ。あの人、何か知っているの?」
「さぁ、凛子。もういいから、ご飯を食べましょう」
母は私に何かを隠している。
「いらない…」
私は何も話そうとしない、母の態度に苛立った。
「ちゃんと食べなくちゃ、いつまで経っても、元気にならないわよ」
「いらないって、言ってるでしょ!」
私は大声で叫ぶと、テーブルの上の食器を右手で床にぶちまけた。
「凛子!」
「お母さんなんか、大っ嫌い!」
私は布団に潜り込むとすすり泣いた。
何故こんなことになってしまったんだろう…いくら考えても分からない自分がもどかしかった。