翌日は朝からひどい土砂降りだった。
俺と凛子は外での日課を諦め、教室で尾崎の詩集について話をしていた。
「ねぇ、明彦、この詩集、やっと読み終わったわ」
「どうだった?」
「何だか言葉のひとつひとつが、胸に突き刺さる感じで、読んでいて切なくなった。彼、二十六で亡くなっているのね」
「もし今生きていたら、どんな曲や詩を作っていたのかと思うと、ゾクゾクするよな。感性が研ぎ澄まされているっていうのかな。未だに熱狂的なファンが沢山いるのが分かる気がするよ」
そんな会話を交わしている時、凛子がめくっていた詩集の裏表紙から、スルリと封筒が落ちた。見憶えのあるピンク色の封筒だった。凛子が床へと手を伸ばした。
「ねぇ、これ、美奈子の手紙じゃない。何でこんな所に挟んであるのよ、もしかしてまだ読んでなかったの?」
「この間、凛子に言われたから、ちゃんと読もうと思って、部屋中探したけどなくってさぁ…こんな所に紛れてたか」
「ちょっと、今ここで見つかったから良かったけど、私がもし家で見つけてたら、どうするつもりだったの?」
俺は何も答えられなかった。
「明彦って、本当に信じられない。無神経にも程があるわよ!」
「分かってるって。その手紙はちゃんと読んで、小野さんにはきちんと説明するつもりだよ」
「説明するって、何をよ?まだ何も読んでないじゃない!」
「読んではいないけど、俺の気持ちは始めから決まってる。彼女には悪いけど、小野さんとは付き合えない…」

その時だった。教室の前の扉が、ガラリと大きな音を立てて突然開いた。俺達は反射的に振り返った。
「あんたたち、こんな時間にここで一体、何やってるの?」
そこには憎悪に目を釣り上げ、顔を真っ赤にさせた渡辺朋子が立っていた。
「柴田に呼び出しくらって、たまたま早くきたら、何よこれ?ちょっと凛子、あんたひどいじゃない。美奈子に協力するようなふりをして、陰でこそこそやってるなんて!」
先程の会話を渡辺は外で聞いていたのだろう。持っていた鞄をいきなり床に叩きつけたかと思うと、凛子の目の前までやってきて、いきなり彼女の左頬を張った。
激しく渇いた音が教室中に響き渡った。凛子は一瞬、何が起きたのか分からなかった様子で、その場に呆然と立ちつくしていた。
「やめろよ、渡辺!誤解だってば」
俺は叫んだ。
「何が誤解なの?まったく笑っちゃう。あたし見たんだから。昨日、ふたりして何処かへ出掛けてたでしょ?あたし、あの電車の中にいたのよ。ふたりで肩なんか寄せ合っちゃって、まるで恋人同士みたいに眠ってるんじゃない。もうびっくりよ!あんた達、本当は付き合ってるんでしょ?はっきり言いなさいよ!」
凛子に掴みかかろうとする渡辺を、後ろから力ずくで引き離した。
「やめろってば!」
「ちょっと離してよ!山口君、この女に騙されてるのが分からないの?」
渡辺は大きく目を見開き、こめかみに浮いた静脈がぴくぴくと細い蛇のようにのたうち、怒り狂っている。その形相に凛子は震え、左頬を抑えたまま、力なくその場にしゃがみ込んだ。

そうこうしているうちに、クラスメイトが次々と登校してきた。俺達のただならぬ雰囲気に、皆ざわめき出した。
「明彦、一体どうしたんだ?」
純也だった。
「純也、何でもない、何でもないんだ!」
「ちょっと離してよ、離してったら!」
渡辺は足をバタつかせながら騒ぎ立てた。
「何でもないって、小川さん、口から血が出ているじゃないか!」
どうやら凛子は、叩かれた拍子に口の中を切ったらしい。
「ちょっと、凛子、どうしたのよ!」
今度は登校してきたばかりの矢沢が、驚いて凛子に駆け寄った。
「朋子、あんた凛子に一体何をしたの?」
渡辺の怒りは収まる気配がなかった。廊下に引っ張り出そうとしていた俺の腕を振り払い、凛子の上に馬乗りになると思い切り髪を引っ張った。
「しおらしいふりなんかして、親友を裏切るなんて、あんたって、本当に最低!」
そう吐き捨てるように言うと、もう一発、左頬を張った。教室の中に血の匂いが漂った。
「ちょっと、やめなさいよ、朋子!」
矢沢が力ずくで渡辺を引き離そうとした時、横から輝が入ってきて、凛子から渡辺を引き離した。
「凛子ちゃん、大丈夫か?今すぐに先生を呼んでくる!」
輝が渡辺を抑えながらそう言った。
「輝、悪い。何でもないから大事にしないでくれ!渡辺、廊下に出よう」
渡辺を廊下に出そうと必死になっていると、彼女が大声で叫んだ。
「みんな良く聞いて。この女はね、美奈子を裏切って、裏で山口君とこそこそやってたのよ!あたしさっき聞いたんだから。そこの手紙、美奈子が山口君に書いたものでしょ!あんた、その手紙を、山口君に渡すふりなんかして、実は自分が山口君と付き合ってたんじゃない!」
「凛子、それ本当なの…?」
矢沢の顔がみるみる変わった。静かな声だったが、先程までとはまるで違う、冷たい口調だった。
「違う…」
頬を張られたせいで上手く話せない凛子の声は、周囲のざわめきにかき消された。騒ぎを聞きつけた隣のクラスの生徒までが集まって、大きな人だかりができた。
その時だった。
いつからいたのだろう、視界の端に虚ろな目をした小野美奈子の姿が映った。
「美奈子、違うの!」
凛子は弾かれたように立ち上がると、必死に叫んだ。小野は大きく顔を歪め後ずさると、廊下へと駆け出して行った。
「美奈子!」
凛子は矢沢の手を振りほどき、クラスメイトの間をかき分け、小野を追い駆けた。俺は慌ててふたりの後を追った。
「凛子、大丈夫か?」
「うん!渡辺さんは?」
「純也と輝に任せてきた。とにかく早く、小野さんを追い駆けよう!」
先程の小野美奈子の姿は尋常ではなかった。
一刻も早く、彼女を止めなければならなかった。
「美奈子、屋上へ行く気だわ!」
「急ごう!」
中学の頃、陸上部のランナーだったという小野の足は驚くほど早く、なかなか追い付けなかった。廊下の端までくると、小野はさらにスピードを上げ、屋上へと続く階段を一気に駆け上がって行く。俺達もその後に続いた。呼吸が激しく乱れた。凛子は足がもつれ、階段の途中で躓いた。
「痛っ…」
「凛子!」
「いいから早く美奈子を止めて!」

やっとの思いで屋上まで辿り着き、扉を開けた。雨は勢いを増し、ごうごうと風が唸っていた。雨が全身を打ち付け、目を開けていることすらままならない。
小野はずぶ濡れで、フェンスも何もない屋上の端に鞄を抱えて立っていた。そこはあろうことか、数日前に凛子と青空を眺めた場所だった。
「小野ごめん。でも、誤解なんだ!」
豪雨のせいで俺の声はくぐもった。後からきた凛子は足を痛めたらしく、扉に掴まり立っているのがやっとのようだった。
「お願い、美奈子!話を聞いて!」
凛子がしゃにむに叫んだ。
「………」
小野が一段高い所へと上がった。
「危ない!」
「山口君、何故、返事をくれなかったの?」
「それは…貰った手紙をなくしてしまったからなんだ!」
「違う。本当は凛子と付き合ってたんでしょ?さっき、朋子が言ってた…」.
「違う!俺達は付き合ってなんかいない」
「嘘!じゃあ、どうして返事をくれなかったの?」
「だから…手紙をなくしてしまったんだ!」
「なくした?さっき、教室にあったわ。ふたりして読んで、あたしのこと笑ってたんでしょう?」
「違う、美奈子!そんなことする筈ないじゃない!」
「凛子、あたし凛子のこと、ずっと信じてたんだよ…」
「美奈子、違うの。全部、誤解なの!」
「誤解?あたしのこと、ふたりして騙してたんでしょ…何も気付かなかったなんて、馬鹿みたい」
「違うよ、小野!騙してなんかいない。全部、俺が悪いんだ…」
「何故そんなふうに凛子をかばうの?凛子のことが好きだから?」
小野の表情は雨と涙のせいで、さらにひどく歪んで見えた。
凛子が小野のほうへ駆け寄ろうとしたが、大量の雨水に足元をすくわれ、その場に転んだ。
「美奈子!お願いだから、こっちへ戻ってちゃんと話を聞いて!」
「今さら話すことなんて何もないよ…」
「美奈子!」
その頃には事情を知った柴田先生が、血相を変え駆け付けてきていた。
「あたしね、凛子のことが大好きだった。でも、凛子は違ったんだね…あたしって、本当に馬鹿」
「そんなことない!私、美奈子のこと、今でも親友だと思ってる」
「親友って、凛子にとっては一体、何?」
「一緒に笑ったり、泣いたり、時には助け合ったり…私達、ずっとそうしてきたじゃない!」
「小野、冷静になって、ちゃんとみんなで、話をしよう」
今度は柴田先生が叫んだ。
「美奈子、信じて!すべてを話すわ」
「本当に…本当に信じていいの?」
「当たり前じゃない、私達、親友でしょ!」
小野が少し落ち着きを取り戻し、一段下りようとしたその瞬間、青白い閃光が走り突風が屋上に吹き荒れた。
「あっ!」
「きゃあああー!」
雨の降りしきる中、小野美奈子の身体が宙に舞った。
それはまるでスローモーションの映像かのごとく、無機質な瞬間だった。
「美奈子!」
凛子は大きく叫ぶと、その場に倒れ込んだ。