ま、いっか。
目を閉じて、幸せな優しい甘さに浸っていると、お兄さんは私の頭を撫でた。

「『御愛(おいと)ぼい』ってね、御所言葉で、『かわいい』って意味だよ。由未ちゃんはかわいいね。百合子(ゆりこ)とは大違いだ。」

ゆりこ?

「さっき由未ちゃんの言ってた『お姫様』って、百合子のことだろ?橘百合子。あいつはワガママで気まぐれだから、何か言われても気にしなくていいよ。」

……そうなん?

「たちばな?『天花寺のお姫様』なのに、たちばな?」

父は、彼女のことを「天花寺のお姫様」と呼んでいた。
お兄さんは、文机に向かって正座して、半紙を正面に置き、硯に溜まった墨を筆につけて、さらさらと書きながら説明してくれた。

「『橘百合子』……『たちばなゆりこ』はね、この『天花寺』の現当主の妹が『橘家』に嫁いで産んだ子だけどね、去年離婚して、この『天花寺』に引っ越してきたんだよ。」

「りこん・・」

クラスにも、親が離婚した子は何人かいるので、私は反射的に悲しい顔をしてしまったらしい。

お兄さんは、もう一粒、「おいとぽい」を口に入れてくれた。
とたんに、私はとろけそうな笑顔になる。

「この当主の妹の姑ってのが、とんでもなく鼻持ちならないおばさんだったらしくてね、百合子はその気質をそっくりそのまま受け継いでるから、プライドが高くて、癇癪持ちで、うるさくて、めんどくさくて……」

お姫様のことをずいぶんとぞんざいに言うお兄さんに心底驚いて、私は尋ねた。

「お兄さん……お兄さまは、誰?お姫様のお兄さま?」

何となく、お姫様のお兄さんなら、「さん」だと失礼かもしれない……と、子共心に、つい「さま」と言い直してしまった。

「僕は、『天花寺(てんげいじ)』……」
そう言いながら、お兄さまは半紙に「恭匡」と続けて書いた。

「読める?」

……8才の私に読めるわけがない難読文字だが……たまたま同じクラスに「恭子(きょうこ)」ちゃんと「匡介(きょうすけ)」くんがいたので、私はこう読んだ。

「きょうきょう。」

お兄さまは、楽しそうに言った。

「いいね。きょうきょう。誰もまともに読めない本当の名前よりずっといいよ。僕は、天花寺の現当主の息子。百合子は僕の従妹だよ。」

え?
私は息を飲んだ。

「きょ……きょうお兄さま……は、本当は、何て言うんですか?」
「恭匡(やすまさ)。読めないだろ?きょうきょうは言いづらいだろうから『恭(きょう)兄さん』でいいよ。」
……さん、って、とてもお呼びできません!

かくして、私は天花寺恭匡さまを、恐れ多くも「恭兄さま」と、私だけの呼称で呼び始めた。