ほとんどパラダイス

新大阪で降りて改札を出ると、松尾先生が待ってらした。

「先生!ご無沙汰してます!お変わりありませんね。」
駆け寄ってそう言ったら、松尾先生は顔をしかめた。
「むかつくわー。紫原、普通じゃないの。上総丈は痩せてゲソゲソなのに!」

……いきなりカウンターパンチをくらってしまった。
「……普通って。一時は拒食症みたくなっちゃって大変だったんですよ、これでも。」
一応そう反論したけど

「自業自得でしょ。」
と、あっさりかわされた。

「ま、いいわ。行くわよ!時間ないから。」
さっさと歩き出した松尾先生に、キャリーバッグを引っ張りながら慌ててついて行く。
地下鉄で難波まで移動。

「もしかして、歌舞伎見に行くんですか?」
かつて何度も通った通路を歩きながら、松尾先生に確認した。

「そうよ。中野のコネでせっかく桟敷席をいただいたんだもの。」
松尾先生はあっさりと恐ろしいことを言ってくれた。
桟敷席って!
勘弁してください……。
明らかに嫌な顔をした私に、松尾先生はビシッと言った。
「あんた、一方的に上総丈を拒絶して、それっきりなのよね?自分の無責任な行動がどう影響を及ぼしたのか、ちゃんとその目で確認しなさい。それから、話しましょ。」

……怖い……怖すぎる。
ゼミでは何を言われても言い返す自信があるけど、この糾弾には勝てる自信がひとっつもなかった。

実際、舞台の上総んは別人かと思うほど面変わりしていた。
ただ痩せたというのではなく、精気がなくやつれていた。
あんなにも輝いていた瞳は暗く落ちくぼんでいた。
上総んの全身から隠しようもなく出ていたスターオーラは見る影もなかった。
存在感がない、ただの背景だ。
声も、艶のあるイイ声だったのに、どうしてそんなに弱々しいの?
あのヒト、いったい、舞台で何してるの?
私がこうして前のほうの桟敷席にいるのに、気づきもしない。
そうだ。
上総ん、客席を見てない。
こんなヒトじゃないのに……。

幕間に、松尾先生が皮肉っぽく言った。
「感想は?……泣いたって許さないわよ。」

泣いてる?
指摘されて気づいた。
私の目からは確かに涙が流れていた。
グシッと手で涙を払った、
「もともと、あんな役者じゃなかったですよね?別人過ぎて。」

松尾先生はため息をついた。
「長く舞台を見てるとね、名だたる名優と呼ばれるすばらしい役者でも、別人のように芸が荒れるヒトはけっこういるのよ。芸能界でちやほやされて自分を見失ってたり、畑違いのミュージカルで評価されて歌舞伎から芸がかけ離れてしまったり、離婚や嫁姑関係で家の中がゴタゴタしてたり……失恋なんか芸の肥やしにしなきゃいけないのに、今の役者はメンタルが弱い子が増えたわ。」

芸が荒れる……。
単にやる気がないだけじゃないのか。
「一度、芸が荒れてしまった役者でも元に戻ることはできるんですよね?」

「どうかしら。」
松尾教授は肩をすくめて続けた。
「私生活が落ち着いたら芸も戻るヒトもいれば、いつまでたっても荒れたまんまのヒトもいるし、廃業する役者もいる。本人の気持ちと周囲のサポート次第じゃない?上総丈は、その点、微妙。せっかく抜擢されてたのに……来月はお休み、再来月からは明らかに役付が落ちたわよ。このままつぶれるかもね。」

目の前がグラッと傾いて、暗くなった。
思わず膝に肘をついて、前屈みになって耐えた。