ほとんどパラダイス

……忘れてた。
上総ん、今、大阪だから、松尾先生、観劇したんだ。

「あーえーと、そうですね、その話も相談したかったんですけど、それより、先生、ご結婚されるって聞いて。おめでとうございます。」
これ以上怒られないうちに、と、慌ててそう言った。

『あら。聞いたの。野田くん、おしゃべりね、相変わらず。』
さすがに松尾先生の口調が柔らかくなった……でも一瞬だった。
『ま、いいわ。夏休み、帰省するんでしょ。訪ねてらっしゃい。吉田山の別荘。意外と涼しいわよ。』

……中野大先生と一緒に住んでる、ということだろうか。

「わかりました。お伺いいたします。」
『早く来てね。来週から軽井沢だから。』
「……はい。」
相変わらず元気だわ……。
まあ、元気じゃなきゃ還暦過ぎて結婚しないか。

その夜、荷づくりをしながら峠くんを待ち、帰省を伝えた。
「2,3日で帰ってくるから、心配しないで。」

私がそう言うと、峠くんはちょっと考えた。
「じゃあ、まなさんの留守中、俺も実家に帰省しようかな。」

……え?
もしかして、峠くん、本当は帰省したいのに、私の世話のために残ってくれてるの?
何も言えなくなってしまった。
ただ、峠くんの両腕をぎゅっと掴んだ。
こんなんじゃ伝わらない。
せめて、お礼の言葉を伝えたいのに。
ホロッと涙がこぼれた。
……ダメだ。

「まなさん?」
案の定、峠くんには涙の意味は伝わっていないようだ。

私はグシッと涙を拭いた。
「峠くん。ほんっとにありがとう。でも、私を最優先にしないで。もう充分だから。」

峠くんの瞳が揺れた。
「俺、迷惑ですか?」

慌てて否定する。
「まさか!すっごく助かってる。回復できたの、峠くんのおかげだし。でも甘え過ぎて迷惑かけてるような気がしてる。」

すると峠くんはせつなげな表情になった。
「好きな女に甘えられて迷惑な男なんていませんよ。」

……好きな女……。
あれ?
「……峠くん、私のこと、好きなの?今も?」
驚いてそう聞くと、峠くんは肩を落とした。
「……マジで伝わってなかったんですか。俺、言いませんでしたっけ?」

「いや、初対面の時のことは聞いたけど……」

「……しつこいって思われるかもしれませんけど、俺、まなさんのことずっと好きでした。いや、2年前より今のほうがもっと好きです。」
峠くんは、私の目を見てキッパリハッキリそう言ってくれた。

……本気なんだ。
いつの間にか、心臓がドキドキと早いリズムを刻んでいた。
上総(かずさ)んを拒絶して以来、胸にぽっかりと空いていた大きな穴はいつの間にかふさがっている気がする。
私、ちゃんと、峠くんの告白にときめいている。
自分の変化にやっと気づいて、私はますますうれしく感じた。
それもこれも、全部、峠くんのおかげ。

どう伝えようか考えてると、峠くんが言った。
「俺はもうまな板の上の鯉ですから。煮るなり焼くなり、まなさんの好きなようにしてください。」

言い方がおかしくて、ちょっと笑ってしまった。
「私が?調理するの?峠くんを?」
ふふっと笑いがこぼれた。

峠くんもまた、つられたらしく、笑顔になった。  

普段無愛想な峠くんの笑顔は、やっぱり素敵で……食らいつきたくなった。