ほとんどパラダイス

「論文か。それは、編集会議で承認を得れば、だな。」
野田教授は、顔をしかめて見せた。
「そう、がっつくな。全国大会で発表できるだけでも、箔はつく。」

「……私の論文は、全国紙に掲載されるレベルではありません、か?」
敢えて、そう聞いてみた。

野田教授は、嫌そうに言った。
「いや。たぶん大丈夫だろ。……お前、変わったな。前はもうちょっとかわいかったのに。今は、ふてぶてしさが痛々しいぞ。」

つい失笑が漏れ出てしまった。
そりゃ私は、野田教授お気に入りの美子さんのように甘えられないし、池尻嬢のように媚びることもできない。
「……そうですか?化粧やめたからでしょうか。」
適当にごまかすつもりでそう言った。

野田教授は、ボソッと言った。
「研究者として生きていくなら、男は選べ。それから、処世術を覚えたほうがいいな。」
……どういう意味だ。
返事に窮してると、野田教授は言いにくそうに言った。
「紫原が学部で世話になった松尾さんな、結婚するらしいぞ。あれぐらい狸(たぬき)になれたら向かうところ敵なし、だな。」

「へっ!?」
「なんだ。聞いてないか。式も披露宴もなしらしいから、来年の年賀状まで周知しないつもりかもな。」
「ええっ!?だ、だれと!?松尾先生、親御さんの介護のために3月で定年退職だって聞いてましたけど……。」

野田教授は苦笑いした。
「介護ねえ。むしろ松尾さん、嫁ぎ先の親が亡くなるのを待っての結婚らしいけど。」

不穏な言葉にギョッとした。
「あの、松尾先生のお相手って……」

「そうか。若い子は昔の噂、知らないか。中野先生だよ。中野喜三郎先生。」
予想だにしなかった大きな名前に、私は言葉を失った。

「中野先生って……通史を書ける最後の大先生って言われてる、あの中野喜三郎先生ですよね。」
「そうそう。旧財閥系老舗百貨店の御曹司の中野喜三郎さん。今年80歳ぐらいかな。数年前から目を患ってらっしゃるから表舞台には出てこられなくなってるけど、力は相変わらず絶大だ。特に西日本の人事はまだ掌握してらっしゃるんじゃないか?」

やっぱり中野喜三郎先生なのか。
名だたる有名大学の名誉教授で、紫綬褒章も受章されてて、日本学士院会員にも任命されてらっしゃる日本史の第一人者と言っても過言ではないかただ。
「でもどうして……」

2人の接点がわからない。
そりゃ、同じ日本史研究者同士だから学会で顔を合わすことはあっても、部会も違うはず。
そもそも年令も立場も住む世界も違う気がするのだが。

野田教授は、言いにくそうに話してくれた。
「松尾さん、学生時代から中野さんとデキてたよ。もちろん、中野さんは妻子持ちだったけど。今で言う、不倫だな。」

「不倫……松尾先生が……。」
信じられない。

「ま、40年越しの恋が結実したんなら、経緯はどうあれ、おめでたいんじゃないか。実家に帰るなら訪ねて中野先生に紹介してもらってきなさい。」
野田教授にそう言われ、条件反射で頷いた。
やっぱりちょっとだけ帰ろう。

院生研に戻ると、もう誰もいなかった。
すぐに私は教授を退官された松尾先生に電話をかけた。
『紫原?』
懐かしい松尾先生の声。
「御無沙汰してます。お元気ですか?」
どう切り出そうかドキドキしながら挨拶した。

ら、いきなり怒鳴られた。

『何、悠長なこと言ってんのよ!あんた!上総丈に何したの!もう!せっかくの一発大逆転がパーよ!パー!あんたのせいで!』