ほとんどパラダイス

「今年の夏休みは、実家に帰ろうと思う。」
7月に入ってすぐ、峠くんにそう告げた。

「実家って、でも、お父さんと2人ですよね?まなさんが、食事作る?」

……痛いところをつかれた。
「まあ、これでも一応、祖母の死後は私が料理したんだけどね……父は仕事人間で時間不規則で家で食べないし、私は食欲ないし……結局、冷蔵庫にはビールしかなかったのよねー。特に夏は外出もしないし、マジでビールだけで生きてたかも。」

正直にそう言うと、峠くんは何ともいえない顔をした。
「まなさん……。頼むから、ちゃんと食って、ちゃんと生きようとしてください。そんなんじゃ、俺、心配で帰せません。」

……怒られちゃった。
「だって、食欲ないんだもん。」
そう言ってみたけど、峠くんの愁眉はとけなかった。

「……わかりました。」
峠くんがため息をついた。
「なに?」
「俺も帰省する。うち、滋賀寄りの岐阜なんで、たぶんまなさんのご実家まで、車で一時間半かからないと思う。」
峠くんはそんなことを言い出した。
さすがに驚いた。

「まさか料理しに通うの?……さすがにそこまでしてもらえへんわ。」
そう断ったけど、峠くんは首を横に振って、キッパリ言った。

「俺がしたいんです。まなさんの役に立ちたい。」
真剣な眼差しに胸が……ときめいた。
 
「ありがと。すごくうれしい。」
そう言って、峠くんの肩にそっと頭を預けてみた。
ピシッと峠くんは固まってしまった。

……あれ?
ダメだったかな。
反応がないので、離れた。
「ごめん。甘えてしもた。」
一応そう謝った。

峠くんは無言で会釈してキッチンへ行ってしまった。
……照れるどころか、ニコリともしてない峠くんに、ちょっと鼻白んだ。
やっぱり峠くん、別に私のことを好きってわけじゃなさそう。
そりゃそうよね。
ずっと上総んと付き合ってるのを間近で見てきてるし、例え2年前に一目惚れしてくれたとしても、とっくに冷めてるよね。
やだな、私。
自意識過剰かも。
恥ずかしい。

「でも峠くん、バイトもあるし、休ませるのも心苦しいわ。……いいや。帰るのやめる。ココにいるわ。」
そうは言ったけれど、本当は帰りたかった。
父が恋しいわけではないが、家でゆっくりしたかった。
マンションは苦手。
古い縁側で、ゴロゴロしたい。
……心の奥底では上総んの家に帰りたがっていることを充分自覚していたけれど、無理やり心に蓋をした。


夏休みに入った。
私は毎日、図書館と院生研に通い、ひたすら研究に打ち込んだ。
真面目にやれば結果は伴うもので……担当の野田教授に思わぬ申し出を受けた。

「学会で発表……ですか。」
まだマスター在学中の私には恐れ多い大舞台を与えられた。
「でもあの、園田さんや坂本さん、池尻さんを差し置いて、そんな……私には荷が重いです。」
一応そう断った。
でも野田教授は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「去年の大会でも学生が発表しただろ。あれを越えてもらいたい。……加倉でもいいが、質疑応答で険悪になっても困るんでな。」
……なるほど。
野田教授にとってライバル的な存在の某国立大教授の教え子の発表を思い出した。
四角四面でおもしろくない発表だったし、指導教授の肩入れが見えすぎてしらけたけど、まあ、破綻はしてなかった。

「……発表だけですか?」
私の中に野望の火が灯った。