ほとんどパラダイス

「私、これからどうすればいい?峠くんにこのまま甘えててもいいんかな。」
上目遣いに加倉を見上げて聞いてみた。

加倉は舌打ちした。
「峠は喜ぶだろうけど、俺には媚びるな!甘えるな!気持ち悪い。」

「あー、すーいーまーせーんー!」
ばかばかしい。

「帰るわ。疲れた。」
「一応送るわ。」
……いらん!……と言いたかったけど、かなり疲れてたので、そこは甘えることにした。

マンションの前で、加倉が言った。
「本気で別れるなら、上総ん家(ち)からお前の荷物、引き取らないとな。」

「……そうね。もうすぐ……7月は上総ん、大阪でしょ?……合い鍵あるから、その時に運ぼうかな。」
荷物のことなんか、忘れてた。
でも確かに、服や化粧品は買い直せばいいけど、辞書や資料は今後も必要だわ。

「上総と、顔も合わせない気なのか?」
「……うん。逢うと、決心が鈍るから。」

私がそう言うと、加倉はちょっと目を見張った。
「何だ、まだ、その程度なんだ。じゃあ、上総の一発逆転もありそうだな。」

「ないないない!拒否る。全力で逃げる。……上総んは、ちゃんと、いいところのお嬢さんと結婚してほしいの。で、お父さんの名跡を継いで欲しいの。」
キッパリとそう言ったけど、ちょっと涙がこみあげてきた。
……ダメだ。
理性ではそう思っていても、心が悲鳴をあげている。
早く平気になりたい。

「私が峠くんを逃げ道にして、峠くんと付き合っても軽蔑しない?」
恐る恐る加倉にそう聞いた。

加倉は苦笑いした。
「軽蔑はしない。……でも、上手くいくとも思わない。結局、紫原も峠も傷つくんじゃねーの?まあ、やってみれば?それも人生経験だろ。」

予想外の言葉に驚いた。
「意外。加倉に呆れられて怒られて止められるのを期待したのに。」

「何だよ、それ。」
加倉は少し笑ってから、真面目に言った。
「峠が紫原に惹かれても、京都と東京じゃあ遠いし、もう逢うこともないだろうし、それっきりだと思ってた。なのに、こうして同じゼミにいて、部屋も近いって、意外とご縁があるのかもしれない。どの程度のご縁かわかんねーから、試してみれば?上総と峠と、どっちが紫原にとって縁が深いのか。……もしかしたら、どっちでもなくて別の奴かもしれないけど。」

「……峠くんならいいけど、他の男はいらんわ。めんどくさい。とりあえず、当分、体力作りと研究に打ち込む。来週の発表、加倉を返り討ちにするから。よろしく。おやすみ。」
肩をすくめる加倉に手を振って、別れた。



6月末、上総(かずさ)んは大阪へ旅立った。
……山崎医師や加倉、峠くん経由で、上総んがどれだけ悲痛な状態で心身ともにやばいかは聞いていた。
けど、心を鬼にして、私は逢おうとも戻ろうともしなかった。
早く私なんか吹っ切って、次の恋愛、できたら歌舞伎役者にふさわしいどこぞのお嬢様と新しい恋をしてほしい。
ただそれだけを願って耐えた。

私の体は、何となく落ち着き始めた。
それもひとえに、毎日三度の食事と、おやつのフルーツを用意してくれる峠くんのおかげだと思ってる。
最初はスープしか飲めなかったのに、今では雑炊やお茶漬けも食べられるようになった。
肉や魚も、峠くんが食べやすいように調理してくれてるものは摂取できている。
ついでに言うと、ほとんど毎夜うちに泊まってくれてる。
なのに、何の肉体的コミュニケーションもない。

……ほんとに、峠くん、私のこと好きなのかしら。