ほとんどパラダイス

こわばった身体から力が抜けていく。
「……考えられなくなるお薬、嫌やねん。」
涙と一緒にそんな言葉が出てくる。

「うん。わかる。まなさん、頭いいから。俺には考えつかない視点で指摘してくれるから。余計に怖いよな。」
峠くんの言葉は、私の弱った身体全体に染み込んできた。

「病院の食事も嫌。峠くんのお料理がいい。」
「……うん。わかった。明日も作りに来るから。」

後ろで山崎医師が唸ってたけど、峠くんは気にせずキッパリそう言ってくれた。

うれしくて、次第に気持ちが軽くなる。
「上総(かずさ)んに別れるって言うてん。」

それに対しては峠くんは何も言わなかった。
ただ、私の背中に回した手に、力が加わった気がした。
「上総んに、成功してほしいねん。」

「……伝える。」
峠くんの飾らない言葉は、いつも信頼できる。
口数は少ないけれど、本当のことしか言わないから。

「幸せになってほしいねん。」

「成功と幸せはイコールじゃないけどね。」
山崎医師が意地悪くそんなことを言った。
……ぐらりと世界がひっくり返りそうに揺れた。
ぎゅっと峠くんにしがみついて、衝動に耐えた。

「まなさん……横になったほうが楽なら、そのほうが……」

「私を選ぶことで、余計な苦労させたくないねん。」
そう言って、またむせび泣いた。
峠くんは、黙って私の背中をさすってくれていた。


どれぐらいそうしていたのか、私は泣き疲れて寝てしまったらしい。

次に目が覚めたのは、たぶん朝。
どうやら、尿の管は既に抜いてくれてたらしく、尿意を感じた。
トイレ……。
この部屋にはないのかな?
特別室のくせに、しょぼい。

ベッドを降りようと靴を探す。
スリッパを準備してくれてるみたい。
よいしょ……と、ベッドから降りる。
一歩踏み出すと、あり得ないほど身体に力が入らず、くにゃっと床に這いつくばってしまった。

あれぇ?

点滴の機械に無理な力がかかったらしく、ピーピーと異常を伝える信号音が鳴り出した。
すぐに看護師さんが飛び込んで来た。
「どうされましたか!?」

「……トイレ……。」

ああ、と、看護師さんが得心してくれた。
部屋の隅に置いてあった、歩行器を持ってきてくれた。
「ココに、点滴のパックを引っ掛けてると大丈夫ですので。出てすぐのところにトイレがありますが、歩行器が大きいので、少し先の大きなほうへご案内しましょうか。」

「お願いします。」
看護師さんに案内されて、大きなトイレへと向かった。
歩行器って、便利。
足も腰もふらふらで力が入らなくても、転倒せずに歩くことができた。

「お前、本気で上総を見捨てる気かよ。」
もう少しで病室というところで、背後からそう声をかけられた。

「加倉。……いきなりその話題、やめて。ところで今日って何日?あの部屋、カレンダーもなくて。」

「お前が倒れてから、5日。上総、やばいぞ。舞台の評判がた落ち。まあ、今までの貯金があるから、単に体調悪いって思われてるけど。このままじゃ積み上げてきたもん全部パーになるんじゃねーの?」

チッ、と舌打ちしてしまった。
上総ん……馬鹿……。
「……今だけよ。すぐ立ち直ってくれるはず……」

「それじゃ遅いんだよ!」
私の言葉は加倉の大声でかき消された。