ほとんどパラダイス

「楽屋に行きましょうか。」
8代目に促されて席を立った。

「……いつか、上総(かずさ)んであの道行きが見たいです。」
歩きながらそう言うと、8代目は複雑そうな表情で私を見た。
「たぶんそう遠くないと思いますけどね。……気の早い話と思われるかもしれませんが、お嬢さんにはその覚悟がおありですか?」

……胸が、ハッキリと痛んだ。
それって、やっぱり、上総んは今後、本来のポジションに据え置かれる、とういう意味なんじゃないだろうか。
12代目の子として、それなりの名前と立場。
……襲名だけじゃない。
日々のチケットやお付き合い……歌舞伎役者がどれだけ経済的な支援を必要とするか……。

私じゃダメだ。

「わかってます。私では何の役にも立ちません。」
8代目を見据えて、キッパリそう言った。
……つもりだったけど、涙がこみ上げてくるのを止めることができなかった。

はは。
やばい。
上総んのペースにのせられて、何となく「付き合ってる」みたいな感じになっちゃってるけど……役者の気まぐれだろうしすぐに飽きられて捨てられて終わり、だと思ってた。

なのに、何だ、これ。
上総んは突然嵐の海に放り込まれて、たまたまタイミングよくそばにいた私に依存して甘えてるだけ。
……これも一時的な関係ってちゃんと理解してるはずなのに……あらためて8代目にそんな風に言われると、身を切られるように痛い。
覚悟しなきゃ。

「そうですか。まあ、そう早々と決めつけてしまうものではありませんよ。蛇の道は蛇ってね。お嬢さんさえ、そういう気持ちでいてくださるなら、私が悪いようにはしませんよ。」
8代目の言葉は、ちょっと怖かった。

それって……本妻にはお嬢様を据えて、私は愛人として囲われるって意味だろうか。

この私が?

……はは。

無理。

涙も引っ込んだ。

私は8代目を見た。
優しさなの中の厳しさ、慈愛の中の冷酷さ。
全てを備えていそうな深い瞳は、ただただ魅力的で美しかった。

「私のことはけっこうです。上総んをよろしくお願いいたします。」
強がりじゃない。
心からそうお願いした。
8代目は、全てを見透かすような目で私を見つめてから、黙ってうなずいた。

楽屋には、幾人かのお客さまが来られていた。
上総んは既に先ほどの化粧を落としてきたらしく、もう次の化粧をしながらお客さまの対応までしていた。
……さすがに部屋までぼっちゃんの部屋をもらうわけにはいかず小さなお部屋を急遽準備してもらったらしいが、部屋に入れないお客さまが廊下にも溢れていた。

「お邪魔しますよ。」
8代目はそう言って入っていったけど、私は廊下に控えた。
この中に入る勇気はないわ。

予想外の大物登場に、お客さまたちはそそくさと帰って行った。
楽屋の中を覗くと、8代目が厳しい顔で、こと細かいダメ出しをしていた。

上総んもまた、一言も聞き漏らすまいと、真剣に聞いて、確認や質問をしながら自分の中で消化しているようだった。