ほとんどパラダイス

もちろん、私は同じ日、同じ時間の博論の締切より何時間も前に提出し終えた。
……てか、こんなことになるとは予想だにせず、図書館でマイクロを見て、峠くんを待っていたのだ。

院生研に戻ると、峠くんがすっかり燃え尽きてボーッと座っていて、びっくりした。

とりあえず、峠くんがお世話になった割烹にやって来たが、お酒が入るとまた文句が口から飛び出してしまった。

「……ごめん。プリンターの修理が思った以上に時間かかってしまって……」
「だから、京都(うち)でプリントアウトしてから持ってくればよかったのに!」
「……うん。でも、うちのインクジェットより、院生研のレーザープリンターのほうがカラーは絶対美しいから……」
「だったら職場でプリントアウトして来いよ!」
「……まなさん。それは、職権乱用だよ。それに、言葉が乱れてるよ。」
峠くんは、就職しても、やっぱり峠くんだった。

窘められて、私はちょっとしゅんとした。
でもしばらくすると、またムクムクと峠くんが卒業できない事実に怒りがこみ上げてきた。

「あ~~~、信じらんない!まだあと1年、学生なの?」
「……いや。教務課でさっき慰めてもらったんだけど、半年後に提出すれば終了証をもらえるらしいよ。今までみたいにゼミに通う必要はないみたい。」
峠くんはそう言って、私の手を取った。

「……本当にごめん。あと半年すれば階級とお給料、上がるから。」
「いや、そういう問題じゃないし。私が博士になるのに、峠くんが修士になれてないことが嫌なの~!」
言ってて泣けてきた。

ホロホロと涙をこぼしてると、峠くんは私の涙をティッシュで拭ってから抱きしめてくれた。
「……そっか。ごめん。ありがとう。でも、そんなこと気にしなくていいんだよ。」
「気にする~~~~。」
めーめー泣いてると、いつ入って来たのか上総(かずさ)んが呆れて立っていた。

「学美ちゃん、変わらないねえ。大将が呆れてるよ。」
「あ。上総んだ!久しぶり~。美子さんと、ちび上総くん、元気?」
「御蔭様で。毎日、先代の舞台映像見せて、勉強させてるよ。」
「すごーい!英才教育してるんや~。」

峠くんから離れて、上総んの腕を引っ張って、空いている隣の席に座らせた。

「で?上総ん自身は?勝てそう?」

昨年末、上総んの師匠で、本当は異母姉の旦那である13代目が癌で亡くなった。
14代目の名跡は、ご子息よりも、上総んに流れて来そうな空気が濃厚らしいのだが……

「勝ち負けじゃないけどね。大事なのは血筋だけど、結局は人気商売だから。いずれ俺が継ぐことになると思う。大奥様がどこまで意地を張るか、だね。」
しれっとそう言った上総んは、揺るぎない自信に満ちていた。

「かっこいー!!!すごーい!惚れそう!」
思わず拍手をしてそう言った。
上総んは満足そうにうなずいた。
「でしょ?今からでも遅くないよ。峠くんに飽きたら俺のところに戻っておいで。」

峠くんの苦笑いに、私はニッコリ笑いかけてから、上総んに舌を出した。
「ダメ。私を幸せにしてくれるのも、私が幸せにしてあげられるのも、峠くんだけやから。ね?」

うれしそうな峠くんの笑顔に、私もまた胸いっぱいに幸せが広がった。

峠くんと一緒にいるだけで、幸せ。
峠くんの腕に抱かれてると、幸せ。
峠くんの瞳に映る私は、本当に幸せそうで……

「天国って、こういう感じ?」
上総んは肩をすくめた。

「口惜しいけど、そう思うよ。学美ちゃんが幸せそうで、よかったよ、ほんと。峠くん、ありがとうね。」

峠くんは、上総んの肩をポンポン叩いた。
「……俺も、上総にも、美子さんにも、加倉にも……みんなに感謝してる。そう思えるのも、まなさんのおかげなんだけど。」

そして、峠くんは私を見つめた。

ほら、その瞳に天国が映ってるよ。
幸せそうな私がいる。
峠くんがいる、ここが、天国。

大好きよ。