ほとんどパラダイス

病院を出ると、そのまま学園へ向かった。
こんな時でも勉強したがる自分がちょっとおかしかったけど、こんな時だからこそ打ち込みたかったのかもしれない。
それに私が資料に没頭してると、峠くんも自分の勉強をせざるを得ないらしい。
何としても修士論文を書き上げてほしい私としては、そういう意味でも好都合だった。

「あ。」
夕方、峠くんが自分の携帯を見て、小さな声をあげた。
誰からかメールか何かかな?
聞いていいものかためらってると、峠くんは黙って画面を私に見せた。
上総(かずさ)んからのメールだった。

<世話かけて悪いけど、学美のこと、お願いします。>

「言葉通り受け取っていいのかしら。牽制?」
憮然とそう言うと、峠くんはため息をついた。

「心配なんだと思うよ。」
そして、私の髪にちょっと触れて、また手を放した。
……峠くんの葛藤の現われのように感じた。
「上総は、俺がまなさんをずっと想ってること、知ってるから。」

ドキッとした。
ずっとそばにいてくれてるし、疑いようもないけれど、峠くんが私への気持ちを言葉にしてくれるだけで、幸せで泣きたくなった。

「私の気持ちも、知ってるのかな。」
何て言えばいいかわからなくて、そんな風に言ってみた。

峠くんはちょっと笑った。
「たぶん、わからないヒトいない。まなさん、わかりやすいから。……だから、つらかったと思う。上総。」

そうなんだ。
そっか。
わかりやすいんだ。
……なんか、今さらだけど、恥ずかしくなってきたな。
てか!
だったら、何で、私は上総んに抱かれてたんだろう。
何で、峠くんは私に触れるのをためらわなければいけないんだろう。
こんなのおかしい。
結婚してるわけでもないのに、変だ。
まるで、体を張ってボランティアをしてるみたい。

……いきなりそんな風にしか思えなくなった自分に気づいて苦笑した。

それでも、夕べまではちゃんと情があったんだ。
上総んに頑張ってほしい、支えたいって。
そのために自分を殺してた。
やっとそのことに気づいた。

「何か、吹っ切れた気がする。」
そう言って、私は峠くんの頬にキスした。

あまりにも唐突だったので峠くんはさすがに驚いたらしく、赤くなって周囲を見回した。

「もう、みんな帰っちゃったよ。」

今は峠くんとは別の部屋に席があるので、このところ学部生も出入りする共同研究室に陣取って勉強している。
テーブルは大きいし、パソコンも使えるけど、時間帯によっては賑やかな部屋。
誰もいない今は、2人の息遣いさえ生々しく響いた。




週末、渡された切符で京都に向かった。
上総んと連絡を取らないまま南座に向かった。
受付で美子さんを呼んでもらう。
しばらく待ってると、息を弾ませて美子さんが走ってきた。
「紫原さん!ごめん!」
いきなりそう謝られて、ちょっとびっくりした。

「こんにちは。どうしはりました?チケット、ないならないでいいですよ?」
どうせまた来週も来なきゃいけないらしいし。

「違うの。お席は夜の部キープしてるんだけど、お食事会、祇園のおかあさんが欠席でお流れになっちゃって。」
美子さんはそう言いながら、ほろほろと泣きだした。

なんで泣く!?