優しい胸に抱かれて

 彼の左手が私の手に触れる。温もりに混じった金属の感触に理性を呼び戻そうと、必死にもがく脳内が命令したのは、唇をきつく噛みしめることだけ。

 指を開かれ手にしていたものたちが奪い取られた。空になった指先を彼はがっちり握り、自由を奪われる。

「…これ、見た?」

「見てない…」


 どの口がそう答えるのだと、自分でもおかしいとは思うが、聞く方もおかしいと思う。それすら、もう何も考えられない。

 
 自分の席へ歩き出す彼に握られた手を引かれれば、ふらつきそうな怪しい歩行でただ着いていくだけだ。

「日下か…。あいつほんと、お節介」

 大きく吐き出した息に合わせて、肩が動いたのをぼんやりと潤む瞳に入れる。


 椅子を引き腰を下ろし、大きさが不揃いの紙たちを器用に片手で整え、元の位置へ戻す。

 それから、両腕を掴みこちらに顔を向けた彼の唇が、緩やかに動く。


「紗希、聞いて」

「…聞きたくない」


 理由は知りたいのに、聞きたくない。意味が解らないから説明が必要なのに、解けない謎のままでいいと、首を振って、動きを封じられた体の中でも動かすことができた頭で抗う。


「この騒ぎでタイミング的に今じゃないんだけどさ。本当はもっと早く伝える予定だったんだ。旭川の帰り、本村さんのカフェ、昨日の[なぽり]。機会はあったのに、言えなくて。…紗希? 俺は、紗希のこと、ずっと変わらず好きだった」

 別れようと言ったくせに。

「昔も、出向の間も、今も。ずっと…」


 待たなくていいって言ったくせに。


 その指輪を意識させといて、どうしてそんなことが言えるのだろう。

 
 薬指に光る指輪に視線を落とす。