優しい胸に抱かれて

「辞めるって騒いでた割に、しっかり役目果たしてんじゃねぇか。見捨てようもんなら女とはいえ一発ぐらい殴ってたかもしれねぇけど、試す価値はあったってことだ。お前は忘れてるかもしれねぇけど、俺も一応お前の上司だってこと」

「忘れてはいないです」

 それ以上の言葉が出てこない。


 忘れてはいないが上司らしさは微塵も感じられない。その中で教わったものは数えきれないほどあって、目には映らないようなものばかりだけれど。日下さんに限らず、みんなの強い思いがしっかりと伝わってくる。

 島野さんが急にカラーで悩み出したあれだって、きっと態と。逃げ出そうとして捨て切れないことを見透かされたみたいだ。そう思うのは[なぽり]で部長に諭されたことが影響しているのだろう。

 それでも、依然として逃げ出したい気持ちは変わらない。


 日下さんは徐に、整理されずデスクにあるインテリアデザインのエスキス、やり繰りした工程表。完成した発注書らに一通り目を通し、ガラスプレートからハートを摘み上げ、しげしげと眺めた。


 眉根に皺を作り、手に取ったピンク色の物体を戻し、顔を上げる。窓に向けられた視線が何かを見つけたように見開いた。同じ方向へ視線を持っていくも、電気の照明が反射し、糸のような雨が伝う窓には私と日下さんが映っているだけだった。


 首を傾げた私に気づき、すぐに目を細くさせた日下さんはぼそっと呟いた。

「…趣味悪ぃな」

 馬鹿にしたように鼻で笑う。桜色のハートの形をしたタティングレースのことを指しているのだろう。やっぱり頭を傾けた。


 発注書類の塊を取り私に背を向け歩き出す。数歩進むと、急に足を止めた日下さんから、聞きなれない言葉が耳へと抜けた。

「これは俺が部長室に置いてきてやる。それと、柏木。悪かった、ごめん」

「…へ?」

 間抜けな声が馬鹿みたいに出てしまう。突然の謝罪に驚くのは当然だ。それが、ましてやこの日下さんが、謝ったのだから。