優しい胸に抱かれて

 そもそも最初から疑問符が頭の中で乱舞しているのだ。わけがわからず、探るように持ち上げた視線を彼に向ける。


 名残惜しそうにのんびりコーヒーを啜って、何がしたかったのか、意味深長に出した社員証をあっさりとポケットへ戻し、立ち上がる。

「トラブル発生、戻ろう。話はまた今度な?」

 その様子に慌てて支度を始める。支度といってもテーブルの上で忘れ去られそうになっている、メモ帳と名刺の箱を鞄に詰め込むだけで、伝票は彼の手だった。


 足掻いたからって気が済むとは思えない。深追いしたっていいことない。今更、話なんかない。今度なんていらない。これからもこの先もずっと、期待はしない。この場はなかったことにしよう。


「…トラブルって?」

「心配ない、ちょっとした発注ミス」

 そうは言うが長島さんと島野さん、両方から戻るように指示を受けたに違いない。少なからずちょっとしたミスではなさそうだった。だって、「大丈夫」そう柔らかく言いながら、彼がまだ険しい顔をしている。

 非常事態なんだと思う。それくらいはわかるようになったんだけど、誤魔化すようにそっと手なんか握って、優しい笑顔を向けられる。


 会社の塀と塀の間を抜けても尚、手と手は握られていた。安心させるかのように強く握られたって、握り返すことはもちろんない。


「手…」

「何?」

 ぽつりと呟いた声を拾った彼は、歩きながら前を向けていた顔をこちらへ下ろす。

「だから、手…」

「手が何?」

「手、離して」

「嫌?」

「嫌だ…」

「吸盤だと思えば大丈夫だろ?」

「…意味わかんない」

 手に張り付く吸盤って、何の道具だ。それに、全然大丈夫な気配がしないうえに、一層力を込められた手から手へ、妙に速まる鼓動が伝わってしまいそうで、前を向き直った横顔を迂闊にも、しばらくの時間吸い込まれることとなった。