優しい胸に抱かれて

 どうしてこんなものを渡したのか、何のためかわからない。よほど、地の底の底にでも突き落としたかったのだ。


 だが、部長の意地悪はこれで終わらず、トマトソースの匂いに顔を上げるとマスターが申し訳なさそうにお皿をそっと置く。部長が注文したらしく、出されたものはナポリタンだった。

「うちの看板メニュー、ナポリタン出さなかったら二度と来ないぞ。って、脅されてね。紗希ちゃん、ごめんね」

「…マスターは悪くないよ」

 一度左右に首を振り、ひきつった笑いを作る。立ちこめる湯気に乗って香るナポリタンは、口にしなくてもきっと美味しいだろう。 


 ほんと、最悪。

 使われなかった灰皿、受け入れられない名刺。最後の思いを込めたコースター。そして、彼の好物のナポリタン。テーブルに並べられた物たちへ視線を注ぐ。ちらっと鞄を見やれば白い封筒の端が覗いている。


 置かれている状況をよく考えてみよう、足りない頭を振り絞ってみよう。瞼を伏せ視界を塞ぐと、マスターの気配が離れていった。

 
 彼が出向から戻り、旭川へ一緒へ行くことになったのだって、きっと部長の企みだ。私が昨年設計したインテリアが商品化されると、一体いつ決定したことなのか、こうなれば知らなくてもいい。

 私の名刺だけ抜いておいたのも、彼が描いたであろうパース図を寄越したのも、逃げようとするこのタイミングを狙っていたのだろう。部長のような策士が優しいわけがない。

 島野さんも出向を先延ばしにしたなんて話を持ち出し、穏やかな雰囲気を作っておいてすっかり油断させられた。


 目を閉じたまま、ぐるぐると揺れ動く思考に混じって、ちょうどお昼時、店の扉が何度か開閉する。さゆりちゃんやマスターが接客に追われているらしく、店内が騒々しくなってきていた。


 こんなことをする理由がわからなければ、これ以上どう足掻けばいいのかわからない。ジタバタしたところで結果は同じ。それこそ、滑稽だと思うから。私にはどうすることだってできないんだ。


 ふっと、肩で息を吐いた時。何かが眉間に触れた。それも割と強めに押されているみたいだった。この感触は人の指だ。と、上瞼を持ち上げるより前に声が届く。

「部長は?」