『えー、何それ、知らない! そこはビーフシチューある?』
『食べたことはないけどあるよ。ビーフシチュー好きなの?』
『大好き、大人の味ってとこがたまらない。決まり、そこ行こうよ!』
『大人の味?』
『そう、ちょっと前まで学生だったじゃない? 早く社会人になりたかったの、大人に憧れてたんだ、私。少し酸味がかった濃い味が大人な味がして。今のこの微妙な時期って大人に成りきってるっていうの? どっちつかずじゃない、責任はない、でも社員』
聞き手によったら、何を適当なことを言ってるんだと、呆れられても仕方ないかもしれない。
『私たちみたいな新入社員は、大人に成りきって演じてるぐらいがちょうどいいでしょ?』
はっとして彼女に視線を向けると彼女は笑って、『甘いビーフシチューだったら、店紹介した柏木さんを許さないから』と、スキップをし始めた。
『オッサンばっかだからさ、私みたいな若い子は何も出来ないと思ってんの。コピーくらい取れるつうの。そのくせ、自分たちは人のせいにして責任取らないで逃げ腰で。今は仕事覚えなきゃいけないけど、今に見てろ!ってね。言われっぱなしは悔しいでしょ?』
新入社員。同じ新入社員なのに、彼女は本当に楽しそうだった。悔しいと言いながらも、それを生き甲斐としていた。
私はまだ何も言われていない。言われるだけのことをしていない。言われて悔しくなることももちろんない。足踏みして立ち止まっているだけだ。
宣言通り、彼女はビーフシチュー。私はオムライスを注文する。
『そうそう、この味。大人な味! 食べてみてよ』
自分のお皿を差し出して、私は遠慮なく一口貰う。口の中でシチューの赤ワインのちょっぴり酸味が効いた濃い味に眉を寄せた。
『これが、大人な味…』
彼女の言う大人な味は。まだ何もしてないじゃないか、足踏みしていないでさっさと進め。と、教えてくれたような気がした。



