優しい胸に抱かれて

「邪魔なんてとんでもない。部長さんの話、もっと聞きたいです。今日が最後で残念」

 本当に残念そうに眉尻を下げたさゆりちゃんに、部長はニッと口角を歪め笑って応える。

「そうか? 年寄りの戯言だ。コーヒー二つ」

「はい」

 元気に返事をしたさゆりちゃんが店の奥へと姿を消す。


 正午を回らないこんな早い時間帯にここへ来たのは初めてだった。近所の人だろうか、眼鏡を手元に置き新聞を読むおじいちゃんが1人、カウンターでコーヒーを啜っている。

「愛嬌があって擦れてない、立派な獣医師になるだろうな」

 さゆりちゃんは物怖じすることなく、明るくて優しい性格。カウンターへと焦点を合わせたまま、そうですね。そう返そうと口を半分開けた時。部長の一言によって、口を閉ざす。

「お前にもああいう頃があったよな?」

 そんな頃のことは一つも思い出したくない。どれもこれも大事だったからこそ、目を背けようとしている。


 声がした方へ睨むように視線を戻すと、部長の悪賢そうで不躾な瞳とぶつかった。
 
「何だ? 最後って、自分のことだと思っていたのか?」

 心配の種だった退職届は無事、部長の目に触れていたのだ。意地の悪さが顔全体に滲んでいる。

「最後だと言われれば、誰だってそう思います」

「事務処理の前に、その単純な頭をなんとかしろ」

 意味がわからないのは単純だからじゃない。と、思う。朝礼の最後に、処理が追いついてないと言ったのは部長だ。


「商品化を讃えた賞状だ」

 と、葉書サイズくらいの紙をテーブルに置いた。それに目もくれず私は答えた。

「…いりません」

「そうだろうな」

 感情を抑えた低い声のあとに、さゆりちゃんが運んできたコーヒーカップが二つ、テーブルの上に置かれる。

 前回、受け取らなかった賞状。2回目の今回も受け取らないのを知っている部長は、スムーズな動きで鞄の外ポケットに突っ込んだ。



『頑張った証がこの一枚に全部表れてるから、俺も頑張ろうと思えんの』


 遠く離れた過去のことなのに、想いが通じ合った日のことを、こうして思い出してしまうのが本当に嫌だ。