優しい胸に抱かれて

 もう、私の耳には彼の言葉が入ってこなかった。


「ねぇ、紘平?」

 最後に、名前を呼んでみたくなった。呼んだら悲しくなった。


「…何?」

 彼の僅かに驚いた声が遠くから聞こえる感じがした。


「私と一緒にいて…、楽しかった?」

 それだけ、聞かせて欲しかった。私は一緒にいて、楽しかったから。同じ想いだったのか知りたかった。


「…楽しかったよ」

 それだけを聞けたのだから、もうそれ以外の言葉はいらない。

 泣きそうになりながらも、少しばかり心が満足した。

「…紗希は? 俺と一緒にいて、楽しかった?」

「私は…」

 こみ上げる想いをぐっと飲み込んで口を開く。

「私も、…楽しかった。好き、だった…」

 堪えた涙に声を詰まらせ、そう言い切った私の頭を「俺も」と、彼は優しく撫でた。

 
『別れよう』と言われた時に、泣いて嫌だって縋っていれば変わっていたかもしれない。あの日、して欲しかった所作をどうして今してくれるんだろう。

 ぽんと頭に置かれた手。音楽やラジオも流れていない無音の車内。
 

 どうして終わったんだろうって考えるから、忘れられない。忘れようと必死になるから、忘れられない。

 もう、名前を呼ばない。もう、横顔を見ない。もう、思い出さない。もう、考えない。もう、一緒にいる時間を共有しない。
 
 もう、戻らない。これが、最後。


 過去に2人で見た、一番多くそこらにありふれていた景色の中で、まだ好きなんだって想いが蘇った今この瞬間の夕陽が、一番切ない。