優しい胸に抱かれて

「…名前。やっと呼んだ」

 指摘されて追いつく思考にはっとして、今更口元に手を当てても十二分に遅い。口走ったわけじゃなく自然と口から出てしまったのは、変わらない場所だからかもしれない。それか、自分で思っている以上に私はよっぽど馬鹿なんだろう。


「ごめんなさい。つい…」

「紗希はいつ俺の名前呼ぶんだろうって思ってた」

「…もう、呼ばない」

「何で?」

「その…、相手に悪いから」

 左手の薬指を指し、なるべく意識しないで言った。

「…ああ、そうか。別にそこは気にしなくても」

「大事なんでしょ…、気にした方がいいんじゃない?」

「聞いてたのか」

「聞こえたの…」


 心の支えって言えてしまうくらい大事なら、私に構わないで。新車を購入したのは彼女とドライブを楽しみたいからなんでしょ。気にしてあげてよ。

 じゃないと、行き場のない想いをずっと抱え込まなければ行けなくなるから。


「まあ、確かに…」

 と言って、薬指の指輪を反対の手でぎゅっと握り締めたのを見て、心が泣きそうになる。胸の中で感じたことのない嫉妬心が成長していく。


「だけど、名前を呼ばないのとは話は別、な?」

「どうして…」

「他人行儀っぽいから」

 どうしてと聞いたのはそういうことじゃなくて、意識的にあえて呼ぶ必要ないのに。


 無意識の中で久し振りに声に出した彼の名前は、まだ切なく耳に残っている。

 私は一体どんな顔しているのだろう。ポーカーフェイスが上手にできるくらいの器用さがあれば、こんなに困っていないだろう。


「…他人です」

「じゃあ、何て呼ぶわけ?」

「工藤さん」

「そうやって、…一度も呼んだことないだろ?」

 そう言われてみれば今までに「工藤さん」とは、呼んだことがないかもしれない。顔を顰めた私に声を落とす。

「ほら、変だろ?」

「別に変じゃないです。それなら、私のことも名字で呼んでください」

「今更?」

「…課長代理でいいですか?」

「何それ?」

「上司だから」

「随分そこにこだわるな? 俺は紗希のことを部下だと思ったことないけど?」