優しい胸に抱かれて

 誰、だったんだろう。もう会うことはないかもしれないのに。結局、その人の名前を教えてもらわないまま、携帯電話はしつこく鳴り響いている。


「…お疲れ様です、柏木です」

 何でもなかったかのように、機械的に電話に出た。なかなか出ないものだから相手が痺れを切らしているのが目に浮かぶ。ところが、耳に届いたのは落胆しきった声。

「遅っ。しかも、告られてんじぇねぇよ」

「な…、なっ、何で、どうして!」

 想定していなかった台詞に驚いて、何処に身を潜めているのかきょろきょろと辺りを見回した。


「残念、そこじゃねぇ。俺は総務部に用があって来ただけ。通りかかったら聞こえただけだ、誰だか知らねぇけど物好きがいるんだな」

 それだけを言ってブチッと一方的に電話を切られた。


 私は携帯を持ったまま駆けだしていた。もちろん行き先は総務部だ。

 カウンター前で、午前の便の郵便物を仕訳していたよっしーに声を掛ける。

「よっしーっ、日下さん知らない?」

「あそこで煙草吸ってる人のこと? ついでにこれ渡しておくわ」
 
 持っていた封筒を使って喫煙所を指して、届いた郵便物をカウンターに置いた。


 喫煙ルームにある人影は遠目でもわかる。あれは間違いなく日下さんだった。携帯を耳に当て、誰かと話しながら出て来るところ。

 やたらと通る声だから、歩きながらこちらに向かってくる日下さんの話し声がはっきりと聞こえる。

「…あぁ、どっかで油でも売ってんじゃねぇのかよ? あぁ告られてんだから違うか、売られたのかもしれねぇな。しかも、やっすい油。…子供の使いじゃあるまいし面倒くせぇな。…いや、目の前にいるから代わる」

 そう携帯電話を持たされた。話が見えない私に、「いいから出とけ」と無理矢理耳に当てられた。


「…え? 誰ですか?」

「誰ですか、だと? てめえ、商品部に行くだけで何時間掛かってんだ! それと、携帯に出ろ! 出ないなら携帯の意味ないから返…」

 すぐに誰だかわかって、日下さんへ携帯を返す。相手はまだ電話口の奥から叫び声を上げていた。