優しい胸に抱かれて

 何度か見たことあると言うが、私は一度だって見覚えがないと思う。みんなが言うように、鈍いからわからないのかもしれないけれど。

「えっと、あの…?」

「困ってる顔も可愛いんだね」

 そんなことをいきなり言われて、困らない人がいるのだろうか。ほとんどの人は困惑するだろう。正直、面識がないからか、戸惑う私をからかっているんだと思った。

「ごめんね、ぶつかったのはわざとなんだ。戻ってくるの見かけて、話す口実を作りたくてね。好きなんだ、君のこと」

「それは…、どういう、…ことですか?」

 名前も知らない人が、ぶつかったのはわざとだと、私のことを何も知らないのに好きだと言っている。


「それとも、工藤さんのことが忘れられない。とか?」

「え…?」

 何も知らないと思っていた人が、私と彼のことを知っていた。

「俺じゃダメかな? 工藤さんを忘れさせるの。忘れさせてあげるよ」

 彼のことを忘れたいと思っている私に、忘れさせてあげると言う。


 よくわからない状況に、もちろんそれでなくても鈍い脳内が、まともに働くわけがなかった。わかっているのは隣は総務部、ここは商品部のオフィスだということ。


 本当に私に話しかけているのか、後ろを向いた。企画課のデスクが並んでいるだけで、当たり前だが誰もいない。

 それがおかしかったのか、縁に手をつき出入りを塞いでいる目の前の人は、クスリと笑った。

「…携帯、ずっと鳴ってるよ?」

「え…? あっ、ごめんなさい。すみません」

 はっとして、ポケットを探る。取り出した携帯電話には日下さんの名前が表示されていた。

「返事は急がないよ、ゆっくりお互いのことを知ってからでもいいから。出ないの? 切れちゃうよ電話」

「あっ…」

 その人はそう言い残して連なった間仕切りの奥へと消えた。