優しい胸に抱かれて


素早くコートと鞄を抱え部屋を出て行こうとする腕を掴まれた。

『送ってく』

力を込められた腕を何度も乱暴に動かし、いらない優しさを振りほどこうとしたが一向に放してくれなかった。


引っ張られ乗せられた車の中。ほんの数十分、いつもの道のりが苦しかった。


どうして、別れようなんて言うの。別れたくない。嫌だ。


今なら、まだ間に合う。ほら、声出して。涙を流せば、いつもみたいに眉間にキスしてくれる。ほら、早く。


思いとは裏腹に、頭の中に届いたのはあの一言だった。

『お前が邪魔してるんだよ』



奥歯を噛みしめて、唇を固く結ぶ。全身に力を入れて強ばらせた。そうしなければ肩が震えて今にも涙が出そうでどうしようもなかった。走っている車からドアを開けて道路に飛び降りたい気分だった。


自分の部屋の鍵と一緒に付けてある、頻度の少なかった渡された合い鍵を、ポケットの中で器用に外した。

取り出した合い鍵をダッシュボードにこそっと置いた。指輪も。と、触れた指先に感触がなかった。すでに薬指から指輪は消えていた。


まるで、もう必要ないでしょう、と指輪の方から去って行ったみたいだった。


私の家の前に停車した車。降りた私の背中に、ドアが閉まる音に混じって届いた声。


『頑張れよ』


振り切るように走って、部屋の前までたどり着く。うまく鍵穴に鍵が差し込めなくて、ようやく駆け込んだ暗い部屋の中。


彼の前では一滴も泣かなかった。

追いかけてくるわけがなかった。


本当に、終わったんだと実感した途端、堪えた涙は暗い部屋で溢れ出た。


悲しいとか、苦しいとか、辛いとか。どれで泣いているのかわからなかった。ただただ、声を上げて泣いていた。


しばらく玄関に座り込んで涙を流していた私は、電気点けなきゃと、思い起こして立ち上がる。窓の外を覗いて、もうその必要がないんだと理解したら、止めどなく大粒の涙が流れた。

送ってくれなくてよかったのに。それは優しさじゃない、残酷って言うんだよ。


真っ暗な部屋の窓の外、道路には彼の車は停まっていなかった。


縁起でもない夢を見ているんだと思った。だから、起きたら夢から覚めるものだと思っていた。