優しい胸に抱かれて

 提出した書類に島野さんは目を通しながら、独り言を唱えるかのように口を動かした。

「お前みたいな鈍いアシスタントでもいれば心強いと思えるんだ、凄いだろ? いないよりマシだ。汗掻きながら靴底減らしている営業マンや出張だの単身赴任中のサラリーマンてのは並みならぬ努力をしてるんだよな、つくづく感心する。もう一度出向行けって打診されても断るだろうな」

[鈍い]を強調し、パサっと書類をめくる。口を挟もうにも進むしか選択肢がなかった3年を辿るみたいに目を細め、いつになく真面目くさった調子にじっと見つめ耳を傾けた。

「話を聞くだけじゃ解らない。行った奴にしか感じ取れない試練だ。今まで解っていたつもりでいたのは、つもりってだけで理解なんてしていなかったってことだ。積み重ねてきたものを無駄にしない為に絶対3年で戻ってやるってな。それが信念だ」

 熱の籠った口調は言い聞かせられているようで、居心地の悪さから思わず少しの間に口を割った。


「達成できなかったらどうなるんですか?」

「達成できなければ延長だ」

 あっ。と、小さく声が漏れた。何もかも考えあわせてみると当たり前の話、帰ってくるなってことだ。4年掛かるか5年掛かるか本人次第。

 じゃあ、どうして2年で戻ってこれたのだろう。


 自分のペースでと確実にと、焦らないって。日下さんとの差が開いて出遅れることなんか気にしてない様子だった。2年で戻ってくるなんて言っていなかったうえに、いつ戻るかわからないと。そう告げたのは彼だ。

 2年で戻ってくるのが解っていたら、こんなに乱され困っていない。


 一瞬脳裏に沸いた疑問が顔に出てしまったのか、「聞きたいか、あいつの話?」と、紙の束から顔を持ち上げた島野さんと視線がぶつかった。眼鏡の奥から僅かに垂らした目尻が、優しく問われているような気がして、雪の結晶へと目を移す。

『別れよう』そう言われた時のことが、映画のカットを観ているみたいにちらちらと浮かび上がる。


 聞けば、何か解るのだろうか。解ったところで今更だ。投げやりになったのはほんの一時で、私は「少しだけ…」と、答えていた。