あれはまだ、充が小学生の頃だったろう。




この広すぎる家で、いつまで経っても帰って来ない父を待ちながら、悔しさからなのか、それとも寂しさからなのか、母は人知れず泣いていた。

母がどんなに家を綺麗にし、美味しい料理を作って待っていても、帰って来ない父。


その頃にはもう、充も、父がよそに女を作っているということは、薄々気付いていた。


物心つくより前からあまり家におらず、ほとんど会話らしい会話すらしたことのない父なので、充は父にあまり興味がなかった。

だから、充は、母の冷たい手を引いたのだ。



「ねぇ、この家、出ようよ」と。



金がどうとか、これからの生活がどうとか、そんなことまでは考えられなかった。

とにかく、この家を出さえすれば、母はもう泣かないはずだと、充は幼いなりに思ったのだ。


しかし、母は充の手をほどいた。



「逃げたら負けてしまう」、

「あの人の思い通りになってしまう」、


「だから私は、たとえ死んでも離婚なんてしてやらないの」。



母の形相が鬼に見えるようになったのは、あの日からだったのかもしれない。



今の母は、意地が凝り固まってしまったのか、それともただ単に惰性なのかはわからないけれど。

それでも相変わらず、父とは別れる気はないままだ。


そして充もまた、この家に縛られているひとり。




エミと別れたからといって、何が変わったわけでもなかった。

涙さえ、流れなかったのだから。


虚しさ以外は、あの頃と同じでしかない。