さくらのこえ


 そこからどうやって部屋に戻ったのか、記憶がない。起きた時には自身の寝台に横たわっていた。
 体を起こそうにも怠さが上回り、瞼も重く、その日は一日横になって過ごした。
 疲れたように眠る主人を心配そうに伺いながら、仕事を終えた夜、紅葉を含めた女房たちはひそひそと話をする。

「昨日までは普通でいらしたのに、どうしたのかしら」
「いきなり連れ出されて疲労が溜まっていたのかもしれないわ」
「それにしては少し、症状が重いように見えますけれど……」
「そういえば、昨夜馬が駆ける音を聞いたって小間使いの方がおっしゃってたわ」
「もしかして和春様がいらしてたのかしら」
「喧嘩、なさったとか?」
「あのお二人が?想像つかないわ」
「あら、そんなの分かんないわよ。……あ」
「何よ」
「もしかしたら香りが移っていたのかも」
「香り?」
「あの方の残り香よ。和春様には誰の香りかすぐに分かったんでしょう」
「それは……気の毒ねえ」
「誤解を解こうにも難しいところね」
「昨夜、お手紙を書いてましたけど……確か、ここに」

 主人のものに触れるのは気が咎めたが、一大事になりかねない事態だ。春姫が使っている文机に向かい、そこに置かれた紙を手に取った。
 彼女らしい几帳面で、柔らかな手跡にため息をつく。この手紙を読んだならば、和春も気がつくだろうか。それくらいに愛のこもった内容だった。

「本当に……お声さえ出せていれば文句のつけようがないお方なのですねえ」
「私の自慢のご主人ですもの」
「春姫様には悪いですが、このお手紙を届けた方が良いかもしれないわ」
「そうね。明日朝一で届けてもらいましょう」

 そんなことを話しながら、秋晴れの続く夜は更けていった。



✻✻✻



 和春が逃げ帰ったその日、春宮殿では和春と春宮が対峙していた。和春の発する重々しい空気に春宮は無意識に扇を握り締めた。

「御自身が何をされたのか分かっておいでですか」
「……彼女のことか」

 端的に言葉を発した春宮に、和春は苛立ちを隠すこともせず、不機嫌な顔で告げる。

「何もなかったとしてもここを抜け出すなど周囲に知られなかったから良かったものの、御自分の立場を軽んじていらっしゃいます。それに……」
「……それに?」
「私に大量の仕事を押し付けるように言ったのは春宮様でしょう!」
「ばれたか」

 悪びれもせずに涼しい笑顔で答える春宮に怒る気さえ失せてしまう。

「悪いことをしたとは思っているよ。ただ、あの時の自分は心から自分のしたいことをしたと言っても良い」
「春宮様」
「安心してくれ。彼女とは幼い頃にした約束を果たしただけだ。私などが入る隙もなかったさ」
「貴方と言う方は本当に……いいえ、これ以上はやめましょう」
「それで、仕事も一段落ついただろう。なぜまだここに留まっているんだ」
「いえ……大したことでは」

 春宮の問いに素直に答えられない程、和春は自分のしたことを恥じていた。そんな和春を見て、悪戯な笑みを浮かべた春宮は追い打ちをかける。