何も答えない春姫を不審に思いながら、和春は頭の中をよぎる考えたくもない出来事を想像してしまう。
途端、春姫は和春から逃げるように来た方向へと走り出した。
「春姫!」
反応が少し遅れたとは言え、男と女。呆気なく男の腕に収められた華奢な身体は見上げることなく静かに震えていた。
「どうしたんだ。まさか……」
答えることすら憚られる彼女の羞恥心と罪悪感は、ただ首を横に振るだけで精一杯だった。その動作が一体何を示しているのか検討のつかない和春は、つい、言ってはならない言葉を口にした。
「……どうして何も言ってくれないんだ」
気づいた時にはもう遅かった。
彼女の身体が固まるのが分かった。
けれども、出てしまった言葉は取り消すことが出来ない。
今和春に出来ることは離さないように、彼女を抱きすくめることだけだった。
「違う。こんなことを言いたい訳じゃないっ……!俺はただ……ただ……」
今更、何を言っても遅い気がした。
腕の中の彼女は、身じろぐことも、声を出すこともせず、必死に目を閉じて何かに耐えていた。その原因が他ならぬ自分であることに、和春はようやく、自分の発言が彼女を傷付けたことに気づいたのだった。
「すまない」
本当は、別な言葉をかけるつもりだった。会えないひと月の間、ただいち早く愛しい存在に会いたくて、周囲に心配される程仕事に打ち込んだ。その結果がこれだ。
自分の過ちに、後悔してもしきれない。
今度は、和春が手を離す番だった。
「少し……時間をくれないか。そなたを信じる気持ちに偽りは無い。だが、俺は頭を冷やした方が良いらしい。……また来る」
簡潔に、伝えたい最低限のことだけを口にして、温もりを手放す。これが最善でないことなど頭では分かっていた。しかし、冷静になりきれていない和春の今の判断では、何が最善なのか皆目見当がつかなかったのだ。
来たばかりの道を引き返す。行きとは違う、心の奥に溜まるドロドロとした感情を払うように、走る速度をあげたのだった。
取り残された春姫は、呆然と地面を見つめていた。足が地面に根付いてしまったかのように一歩も踏み出せない。ただひたすら彼の苦しそうな、絞り出すような声を思い出しては瞼を強く閉じる。行き場のない手は、強く握りすぎたせいか青白くなっていた。うっすらと血の滲む手のひらを見て、生きていることに笑ってしまうくらいには、心が渇いていることが分かる。
もし、私の声が出ていたのなら……。そんな後悔を何度繰り返してきただろう。でも、どうしようもないのだ。
母が殺されたあの瞬間から、私の声は掻き消されてしまったのだから。

