さくらのこえ


 筆を取ったはいいものの、何を書こうか考えていなかった春姫はさっそくその手を止めた。
 一行書いては違うと紙を替え、書き終わっても最後につける和歌が納得いかない。そうしているうちに、夜もだいぶ更けてしまい、春姫の瞼はうとうとと閉じては開きを繰り返していた。筆を置いてしまえばきっとこのまま伏せて寝てしまうことを察知していた彼女は、寝るまいと筆を握り締め、机と向き合う。しかし、ぼんやりした頭では考えられることも考えられず、結果として一度外の空気を吸うことを選んだ。
 そばに置いておいた上着を手に取り、そっと外へ出る。この時間ならば誰も自分を探したりしないだろうと踏んでの行動だった。

 秋の夜は寒かった。空は星が瞬くくらいに晴れており、その晴れやかさが空気をより澄ましているように感じる。
 今ではもう葉を落としかけている桜の木の元へ歩み寄る。そっとその幹に触れれば、二人で見た満開の桜の風景が脳裏に浮かぶ。今なら、声が出せるかもしれない。そんな風に思い、喉へと力を入れたとき、馬が駆けてくる足音が聞こえた。その足音はどうやら邸の前で止んだようだった。
 こんな夜更けに一体誰が来たというのか。慌てて桜の幹に身を隠す。幸い、樹齢が何年も経っているであろう幹の太さは春姫の体をすっぽりと隠すことが可能であった。

「春姫……っ」

 切羽詰まったように自分の名を呼ぶその声を聞いた途端、春姫は居ても立ってもいられずに、その場を駆け出していた。
 邸に上がろうと靴を脱ごうとしていた彼の姿を見つけ、彼女の口角は自然と上がる。同時に何故だか泣きたい衝動に駆られ、瞳の淵に零れそうな涙を浮かべていた。視界がぼやける中、彼女は精一杯の声を上げて彼の名を呼んだ。

「春姫?」

 確認する間もなく、駆け寄ってきた姿に抱き締められる。その柔らかさも、暖かさも、よく知る人物のものであることに気づくのに時間はかからなかった。
 ただ、一つの疑問を置いては。

「どうして、そなたから春宮様の香りがするんだ……?」

 半ば無意識に零れ落ちたその問いに、春姫は抱き締める手を強張らせた。さっきは出せていたはずの声も、何かに怯えるように音となって出てこない。言いたいことの一つも言えない自分が情けなく思えてくる。

「もしかして、春宮様と会ったのか?」

 嘘をつこうにも、彼女の心は既にばれてしまうことへの恐怖で覆われていた。軽蔑されてしまったらどうしよう、いくら不可抗力とは言え、自分を信じてくれていた人を裏切ってしまったその罪悪感から春姫の腕は力なく解かれる。