さくらのこえ


 明け方、車は一つの邸へと止まる。歩かせる気はないのか、春姫を抱えたまま春宮は寝所へと進んでいった。紅葉は何もできない不甲斐ない身を恨みながら、人の少ないこの邸でせめて春姫を安心させようと、手水の準備をすると告げて邸内を歩く。
 二人きりにするのは忍びなかったが、きっと向き合う時間が必要なのだと己に言い聞かせ、その場を離れた。

 人が少ないせいか、空気が冷たく感じられるこの邸に、二人きりにされてしまったことで、春姫は今にも気を失いそうだった。朝靄が漂う中で、夜には見られなかったその顔が春姫の目の前にはっきり現れる。
 その顔は間違えることなどできない、あの時の面影が残っている彼だった。包まれるその香りにも覚えがある。自分が好きだと笑った、あの香りだ。言葉の端々、所作の一つ一つに自分を思う気持ちが伝わってきてしまう。知らなければ良かった、と春姫は目を伏せた。
 あの時の綺麗な思い出のままで、大事にしまっておけば良かったのだと、彼から与えられる温もりの中で溢れ出る後悔に支配されてしまっていた。何も言えずにただただ感情の赴くままに涙を零す春姫を見て、春宮はそれさえも愛しく思ってしまう。優しいからこそ、人よりも痛みが深いのだろう。彼女に触れたい、自分だけに笑ってほしいなどという自分勝手な我儘でここまで連れて来てしまった自分の浅はかさに春宮はようやく気づかされた。
 そして、先ほどとは違う、包むような優しい力で彼女を抱き締めた。

「すまなかった」

 その一言に春姫の目から涙が止まる。

「貴女を泣かせたい訳じゃなかったんだ。……自分がこんなにも欲深い人間だったのだと、初めて知った。自分勝手なことをしてしまったな……本当にすまない」

 先ほどまでの力強さとは打って変わって、あの、幼い日に抱き締めてもらった優しい暖かさが春姫の胸を満たす。
 好きだった……大好きだったのだ。でもきっとそれは、今思えば寂しさから逃げるために、差し伸べられた手に縋ってしまっていたからだと、抱き締められて分かる。春姫は、想いの矛先が彼へと向いていることにようやく気づいた。触れたいのもただ一人だということに。
 そっと、離れるように春宮の胸を押せば、無理強いはしないと決めたのか、春姫の意思を尊重するように距離を取る。

「……そうか。もう貴女は、前を向いているのだな」

 泣きそうで、でも諦めたような瞳で春姫に問いかければ、春姫もまた、過去に別れを告げるように涙を零して頷いた。朝靄は薄れ、終わりかけの夏の日差しが訪れる。朝焼けに佇む二人は、笑って、二人にしか分からない暖かな思い出に別れを告げた。


✻✻✻


「失礼致します」

 緊張した面持ちで紅葉が部屋へ入ってくる。そして、二人を見れば、さっきとは違う雰囲気に何回か瞬きを繰り返す。

「紅葉も、すまなかった」
「へ?」
「自分のした行いに恥じているよ。もう二度と、このようなことはしないよう、身分を弁えて行動したいと思う。すまなかった」
「あ、え……はい、分かりました……?」
「せっかくだからこの後、庭でも散歩しよう。まずは着替えだな。紅葉、しばらく部屋を出るからよろしく頼む」

 状況についていけない紅葉を置いて、春宮は別の部屋へとさっさと行ってしまった。そのまま春姫に視線を向ければ、困ったように笑ういつもの主人がそこに座っていた。