さくらのこえ


『幼き日の出来事ではありましたが、貴女を忘れたことはただの一度もありませんでした。もし貴女が私を覚えていらっしゃるならば、その人形を受け取ってください。人形だけでも、幸せにして欲しいのです。わがままを申せば、貴女からのお返事が欲しい。
あの日逢坂の関で引き離された私たちですが、その思いは変わらずにいらっしゃるのでしょうか。貴女の元へと魂だけでも飛ばせたらどんなに良いことか』

 そわそわと春姫の様子をうかがう女房。その目線に気づいて取り繕うように笑みを浮かべる春姫だったが、その手は震えたままだった。

「春姫様……余計なことをしてしまいましたね。向こうには既にお休みだとお伝えしておきますから、文をお渡しくださいませ。……春姫様?」

 女房の発言が聞こえていないのか、ふらりと立ちあがり、文机に置いてあった真新しい箱を手に取り蓋を開けた。その手にもう一つの人形が握られる。

「まあ……!それじゃあ、本当に……」

 じっと二つの人形を見つめる春姫。手紙に書かれている内容は春姫だって同じであった。けれども、春姫はどうしても素直に頷くことが出来ない。既に自分は別の男性と道を歩こうとしているのだ。彼の求婚には肯定も否定も出来ずにいたが、声が出せたら言おうと思っていたことがある。それを今、覆されそうになっている。
 どうしたら良いのだろう。
 紅葉を起こそうにも、夜更け過ぎだ。心配をかけたくないと人形を見つめながら必死に考える。会ってしまえば、全てが消え去ってしまう気がした。
 しばらく迷った末に、明かりを取り寄せ筆を取った。

『忘れずにいてくださったこと、大変嬉しく思います。ですがもうそれは幼かったからこその思い出ではないでしょうか。私の妹のこと、大切にしてあげてくださいませ。こうして人形だけでも共にいさせてあげられるようにしていただき、感謝致します。できるなら……もっと早くにお会いしたかった。
貴方の思いが燃えているように私の思いも消えることはありません。逢坂の関が私たちを引き離さなければどうなっていたのでしょうか。』

 涼しい空気が漂う中で、もう寝てしまっただろうかと、横になりながらぼんやりと考えていると、先程の女房が春宮の元へと戻ってきた。飛び起きて、その手に持つ紙を受け取る。まだ、乾いていないのだろう。少しばかり滲んだその手跡を追う。

「やはり、貴女なのだね……」

 感情が高ぶり、涙が溢れ出す。そんな姿さえも美しく、女房は見とれずにはいられなかった。

「お役目は、果たしましたので、私はこれで失礼致します」
「待ってくれ!やはり、どうしても会いたいのだ。会わせてはくれないだろうか」
「そ、それはやはり難しいです。近くには古参の女房も大勢おりますし、さすがに気づかれてしまいます」
「少しでいいんだ。少し……姿だけでも見て、安心したいのだ」

 春宮の並々ならぬ必死さに先程の春姫の様子を見ても、会わせるべきなのか女房は迷う。きっと和春に出会う前に二人の仲はあったのだろう。それを思えば、きっぱりと断ることができなかった。

「少し……少しでございますよ。几帳から覗くだけですが、お姿を見るだけであれば……」
「本当か!ありがとう……っ、ありがとう」

 こうして、女房の案内によって、春宮は一人で春姫の元へ向かうこととなった。