「こちらへどうぞ」
方違えという名目で邸に足を踏み入れる。暗い中では自分が誰かと言うことも分からないため好都合であった。出来るだけ正体が分からないように静かに邸を歩く。紅葉に見つかると厄介であることが分かっていた。
「しばらくは此方でお休みくださいませ。主人からは了承を得ておりますので、殊更のご連絡は不要でございます」
そう告げると、邸の女房は退出していく。頑として彼女の存在を明かさずに近づけないようにしていることが伺える。
「ここの女主人の居所は分かるか」
「は、西の対のお部屋にいらっしゃるようです」
「分かった。それでは一番若い女房を連れてきてくれないか」
呼ばれた女房が緊張した面持ちで部屋へ入ると、目の前には見たこともないくらい麗しい男が座っていた。和春も整った顔立ちをしているが、目の前の男は美しいという言葉がぴったりだった。その美しさに嘆息していると、男は優しく微笑み話しかける。
「急に呼び立てしてすまなかったな。頼みたいことがあるのだ」
「いえ、もてなすのも仕事でございますから。何かお困りでしょうか」
一番若い女房でも、しっかりと教育されているのか、慌てた素振りを見せず丁寧に対応しており、春宮は感心する。
「実はな、この家の女主人と私は幼い頃、共に過ごした中なんだ。ずっと行方を捜していて、ようやく見つけ出すことができた。無理に会いたいとは言わない。ただ、これを渡して欲しい。くれぐれも内密にな」
「い、いえ、でも……春姫様にはもう、結婚をされる方がいらっしゃいますので、その、私が手引きをするのは……」
「まだ結婚はしていないのだろう?これが最後の機会なんだ。私は今後外に出て行くのは難しくなるだろう。せめて思い出になるものが欲しいのだ。私の想いを分かって欲しい、頼む」
その瞳には嘘偽りは映し出されてはいなかった。けれど、願いを聞き入れるには覚悟がいった。女房の気持ちを悟っているのだろう春宮はなおも食い下がる。ついには女房も根負けをして、そっと預かった手紙を隠し、辺りをうかがいながら戻っていった。
夜も更けていたこともあり、春姫の方は既に休む支度を調えて、明かりもわずかであった。音を立てないよう寝所へ進み、小声で春姫の名を呼ぶ。寝付けずにいた春姫は、すぐに床を叩き、入ることを許可した。表れたのは紅葉ではなく若い女房であった為、少し驚いた表情を見せたが何かあったのかと女房へ手を伸ばす。
「あ、あの。春姫様、先ほど方違えでいらした方に呼ばれて向かったのですが……その、これを……渡して欲しいと。渡せば分かるはずだから、と……おっしゃって……」
言い淀む女房から手紙と添えられたものを受け取り視線を移すと、春姫の目が開かれた。どういうことなのかちっとも理解出来ず、震える手で文を開いた。

