さくらのこえ


 春宮殿に戻った和春は不機嫌な顔で仕事に取りかかっていた。戻って来て早々、春宮妃に呼び出されたのだ。仕事がまだ残っているというのに、春宮妃のご用命とあらば他のものを差し置いて向かわなければならない。何か重大なことかと思い即座に向かったのだが、春宮妃はただ話し相手として和春を呼んだだけだと悪びれもせず微笑んだ。会話の途中から探るような視線を感じ、居心地が悪くなった和春は至極最もな理由を掲げて退出した。

「最悪だ……せっかくの香りが無くなってしまいそうだ。もう頑張れない」
「何言ってるんですか次官殿。まだまだ仕事はありますからね」
「何か代わりになる物を借りてくるんだった……」
「女ですか?堅物の次官殿が惚れるくらいなんだから相当な女性なのでしょうね」
「俺のところは俺が居ない方が気が楽だって追い出されてきたよ。羨ましいですよ次官殿が」
「そう思うなら助けると思ってこの仕事をやってくれ」
「無理です」
「次官殿にまかせられた仕事でしょう。さ、もうひと頑張りですよ」
「そもそも何故急にこんな大量の仕事が来るんだ」
「分かりませんよ~。誰かの恨みでも買ったんじゃないんですか」
「身に覚えがない」

 グチグチ言いながらも手は止まらない。そう、身に覚えがないのだ。職務だって全うにこなしているし、怪しいものに携わってもいない。貴族の不興を買うなんてことは考えられなかった。
 とは言え、仕事は仕事だ。一刻も早く終わらせて一日でも早く春姫に会うために、和春は手を動かし続けるのだった。


***

 秋晴れの空が夜まで続いた日だった。静かに門をくぐる一人の人物が居た。

「準備は良いだろうか」
「はい。滞りなく。誰も疑っておりません」

 普段の服装より幾分か気楽な格好で、牛車に乗り込み、どこかの貴族を装いながら道路を進む。ここまで来る間に引き止められることは無く、春宮はほっと安心していた。

「一目だけでも、会えると良いんだが……」

 春宮の手に握られていたものはその年齢にはいささか不似合いな可愛らしい人形であった。別れ際に渡されたのだ、忘れないでと。合わせることで一対となるその人形を春宮は片方しか持っていなかった。これからその約束が果たせるのかと思うと思わず口元が緩む。

「駄目だ駄目だ、多くは望まないと決めたんだった。……和春には申し訳ないが、少しの間留まっていてくれよ」

 和春の元に大量の仕事を流すように指示を出したのは春宮であった。あの時泣いていた少女はもう泣いていないのか、自分を見て笑ってくれるだろうか、と一日も忘れたことのない彼女の面影を探して胸が早鐘を打つ。
 やがて、邸の前に止まったのだろう、車が停止する。後は事前に打ち合わせた内容を踏んでいくのみ。しばらく待っていると再び車が動き出す。いよいよ会えるのだ。幼い頃に出会って、誰よりも傍で守りたいと思った彼女に。