さくらのこえ


 けれどすぐに春姫は視線を落とし、「分からない」と唇が動く。

「やはり、あの方ですか?」

 その問いに、小さく頷いたのを見て、紅葉は悲しくなる。彼女の周りにある全ての縁が絡まってしまっているようで、主人の気持ちが痛いほど身に沁みた。

「春宮様は藤子様をお忘れではありませんでしたよ。だからこそ私も心苦しくて……。けれど藤子様は和春様の気持ちに応えたいとも思っていらっしゃるのですね」

 紅葉の言葉にぽろぽろと春姫の瞳から雫が零れ落ちる。以前であれば悲しいことすら悲しいと言わずに堪える春姫であったが、今はただ自分の感情のままに表情が揺れる。

「……本当は私、藤子様が望むのならば春宮様と再会させようと思っておりました。ですが藤子様のお気持ちに影が差してしまうのなら、私は和春様とのご縁を大切にして欲しいです」

 その言葉に春姫は、戸惑いがちに紅葉の手を取る。それから紅葉の優しさを受け入れるように彼女の身体を抱き締めた。

「藤子様……」
『ありがとう』

 音として伝わることはないが、確かに春姫の気持ちは紅葉に伝わる。応えるようにそっと、紅葉の手も春姫の背に回った。
 自分の大切な主人をどうしたら幸せに導くことができるだろうかとその温もりを感じながら紅葉は思案する。

「……あ」

 ふと何か思い立ったようで、紅葉は笑顔を浮かべ言葉を続けた。

「藤子様、練習しましょう!」

 春姫は笑顔と共に発せられた言葉の意味が分からないといった表情を浮かべる。怪訝な顔を見て、説明が足りないことに気づいた紅葉は慌てて次の言葉を発する。

「藤子様がお声を出せないのは、決して治らないような病気なんかじゃありません。だから、毎日練習すればきっと少しだけでもお声が出せるんじゃないかと思うんです」

 驚いたように目を見開いて、そっと喉元へ手を添える春姫。今まで諦めていたことを、何とかしようと考えていてくれていたことに感謝しながらも、何もしてこなかった自分に不甲斐なさを感じてしまう。

「……いかがでしょうか?」

 不安そうな眼差しにしばしの逡巡が駆け巡る。それから近くの筆を取り、書きつけた。

『ずっと諦めていたの。もう声は出せないんじゃないかって。だけど紅葉がそう言ってくれるなら頑張ってみたい。何年かかるか分からないけれど、付き合ってくれる?』
「もちろんです!私は藤子様が諦めるまでどこまでもついて行きますよ」

 そうして誰にも内緒の練習が始まった。季節も春に終わりを告げ、初夏が始まろうとしていた。
 半月ほど経った頃、紅葉は宮中に再び呼び戻されることになった。

「春宮様のお呼び出しですのでしばらくはあちらに居なければなりません。ですが、もう私は藤子様の元へお仕えすると決めたのでまたすぐにでも戻ってきます。」
「是非ともそうしてくれ。紅葉が来てくれてから、ここはまた明るくなったよ。春姫の表情もさらに豊かになった」

 優しく春姫の髪に触れる和春もこの頃は落ち着いた様で、最近では1日おきという頻度で通ってくる。
 和春の隣ではにかむ春姫を見ながら、二人の幸福を願わずにはいられない紅葉であった。