さくらのこえ



「春姫」

 優しい声でそう呼ばれ、春姫は小さく身じろぐ。

「中将様に抱き締められたみたいだな。香りがする」

 何だか全て見透かされているようで、春姫は気まずさに和春の腕から逃れようとする。そんな春姫をお見通しだというかのようにただ腕の中に閉じ込めた。

「怒ってなんかないよ。ただ少し、嫉妬しただけだ」

 それを怒っていると言うのだと、春姫は和春を見上げ不満げな表情を見せる。最初の頃より表情が豊かになった春姫に、和春は楽しそうに口角を上げた。

「なかなか会いに来られなくてごめんな」

 和春の言葉に首を振って気にしていないと伝える。実際、毎日文が届いているのだ。会えてはいなかったが、和春が傍にいるようでちっとも心細くなかった。春姫の方でもすることが特にないので、ほぼ毎日机に向かい、返事を書いていた。気の利いたことを返せるように頭を悩ませていることは共に生活する女房だけが知っていた。

「明日は仕事が休みなんだ。だから一日一緒にいよう」

 二人の睦まじさを見て、否定できる者がいない程、二人はお互いを求めていた。確かに伝えられた想いは無くとも、誰にも引き裂くことができない深い何かが存在しているようだった。

 翌日、中将の足は真っ直ぐ春宮殿へと向かっていた。伝えるべきか迷ったが、やはり心配させてばかりではいけないだろうと紅葉を呼び出してもらう。春宮の女房となってからも時折語り合うことはあったが、今回は中将の興奮した様子を見て紅葉は不思議に思った。

「どうかされましたか。そんなに慌てて」
「言うか迷ったが、伝えなくてはならないと思って飛んできたのだ」
「……藤子様のことですか」
「そうだ」

 周りに人の気配が無いことを確認し、さらに用心深く声を落として二人は会話をする。

「昨夜、藤子に会ってきた。妹は生きていてくれた」
「っ……良かった……」

 誰よりも愛する主人の生死が分かり、生きていることへの喜びが紅葉の胸に広がる。そこからは紅葉の涙が止まらず、中将もようやく共有できる相手に話せたことで僅かに涙が滲む。

「それでっ……藤子様はいまどちらに?」

 涙ながらに中将に問い、今すぐにでも会いに行きたい気持ちを顕にする。

「私の知り合いである者のところで過ごしているよ。どうやら藤子が気に入ったらしくてな。兄としても安心だ」

 中将が嬉しそうに話す一方で紅葉の表情は僅かに曇る。この世でただ一人、彼女の気持ちを知っているのは紅葉だけなのだ。だからこそ口に出すことはしなかった。

「お会いすることは叶いませんか……」

 ポツリ、と漏れた紅葉の願いに今度は中将の顔が曇る。口止めされたことを言ってしまったのだ。藤子がそれを知れば自分を責めてしまうかもしれない。中将は紅葉に彼女の気持ちを伝え、今はまだ我慢して欲しいと願い出た。

「藤子様が姿を消した理由は私にもあると思うんです。傍にいるべきだったのに、私はあんなに容易く手を放してしまった。……会って謝りたい。もう一度だけ、藤子様に問うてください。藤子様が許していただけるのならば貴女の傍でお仕えしたい、構いませんかと。それが駄目なら諦めます」
「互いに思いやりが過ぎるようだな。何とか説得できるようやってみるよ」
「ありがとうございます……!」

 やれやれと二人の間の取り持ちを請け負い、中将は仕事へと戻っていった。後に残された紅葉はしばらくの間、再び涙を流すのだった。