春宮は目の前で機嫌が良さそうな和春をじっと見つめる。何やら嬉しいことでもあったのか心なしか浮ついているようにも見える。

「随分と機嫌が良さそうだな」
「ええ、まあ」
「さては通う場所でも出来たか」
「そんなところです」

 否定しないところをみると、本当なのだろう。毎日を退屈に過ごしている春宮の目には羨ましく映った。
 自分には元服の際に正妻があてがわれた。待ち望んでいたはずのあの女の子を期待していたのに、彼の前に現れたのは全くの別人だった。

 春宮は小さくため息を漏らす。

「自由なお前が羨ましい」
「恐縮です。そう言えば、今度春の宴を催されるようですね。いつにいたしましょう」
「満月が良いな。今からだといつだろうか」
「二十日後になります」
「それではそれに合わせて準備を進めてくれ」
「分かりました。大方終わってはいますので、後は各方面に連絡をしておきます」
「いつもながら優秀だな。助かるよ」

 一礼をして部屋を去るその背中を見て、春宮は再びため息をついた。
 今でも忘れられない、心の片隅にいる彼女の存在を想う。そこにあるのは泣きじゃくる幼い女の子だった。

「もう一度会いたい……」

 肩肘をつきながら、春の陽気に引きずられ、物思いに耽る。
 会って、確かめたかった。この想いは変わらないものだったと。

「春宮様、春宮妃様がお呼びなのですが」

 その呼び掛けに春宮は渋々ながら立ち上がる。

「今行くよ」

 この呼び出しが愛しいあの子だったなら……そう思わずにはいられなかった。どうやら春の気怠い空気に当てられたようだ。
 春宮妃は器量も良く、自信に満ち溢れていた。嫌いだとは思わないが、どうも接し方に困る。自分は高貴な身分なのだと自負しているようでそこが春宮にとってつまらないものだと感じさせてしまうようだった。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

 今日も美しく身なりを整えており、他の誰かを想い続けている自分にはもったいない気がする。

「何か用でしたか」
「いいえ。ただ春宮様とお話したいと思って」
「そうでしたか、お前たちは席を外しなさい」

 女房たちに告げ、春宮妃の前に腰を下ろす。
 最後に出ていこうとした女房に春宮妃は声を掛ける。その瞬間、春宮は驚きで女房を振り返る。

「紅葉……?」
「どうか、なさいました?」

 小さく呟いた声は聞こえなかったようで、春宮妃が怪訝そうに彼を見つめる。紅葉と呼ばれた女房の方も姿は見えなくなっていた。

「いや……何でもない」

 幼い頃の記憶が戻ってくる。確かに聞いたはずだった、泣きじゃくるあの子の傍にいて、困ったように彼女を抱き締めるその者の名前を。
 だが何故……。目の前に座るこの人が、あの子だと言うのだろうか。

「少し、聞いてもいいですか」
「ええ」
「紅葉という女房とはいつからのお仕えですか」
「紅葉?なぜ?」
「聞いたことがある名前で、もしかしたら知っているかもしれないと思って」
「紅葉は私がここに入内する時に新しく入った者ですわ。それまでは私の姉に仕えていましたが、優秀な者なのでお願いして連れてきたのです」

 姉……。
 春宮は、待っていた彼女がその人だと思わずにはいられなかった。でもどうして彼女ではなくこの方が入内したのだろうか。もしかして既に誰かに嫁いでいるのだろうか。そんな不安が頭を過ぎる。

「その姉上は紅葉を譲って今どちらに?」
「え?ああ…………亡くなりました」

 長い沈黙の後、発されたその言葉に春宮の身体がこわばる。

「亡くなった?」
「そうです。正確に言えば行方知れずになってしまったのでそういうことにしているんです。……何だか空気が重くなってしまいましたね。別の話をしましょう?」

 もうその後の話はほとんど上の空だった。真っ暗な暗闇に放り出されたような感覚に落とされ、どうしたら良いのか全く分からなくなってしまった。
 また会えると思っていたはずのあの子は今どこにいるのだろう。考えれば考えるほど良くない方へ想像が向かう。

「……すみません、気分が優れないので今日はこれで」
「あ、春宮様!」

 彼女の制止も耳に入らないくらい春宮は落ち込んでいた。自室までの道を悶々と歩く。何故、なんて答えの見つからない疑問を解消できずため息がまた漏れる。
 約束などとうに忘れてしまったのか、約束は幻だったのか、春宮の目の前は厚い雲に覆われてしまったようだった。